銀山柵内(大田市)概要: 大永6年(1526)、石見銀山が本格的に開発されると、数多く人達が銀山に携わるようになり石銀地区は銀製錬の町として大きく発展しました。
石銀集落跡では住居跡だけでなく鉱石を比重選鉱する施設跡や製錬炉跡、羽口、カラミ、数多くの坑口が発見されています。開発が進むと大内氏、尼子氏、毛利氏などの戦国大名が石見銀山の所有権を巡り争うようになり、石見銀山を守るように山吹城が築かれ主戦場となりました。
慶長5年(1600)以降、幕府の直轄地になり初代石見銀山奉行の大久保長安は山吹城の山麓に陣屋を設け、当地の政治、軍事の中心地として整備しましたが、2代奉行竹村丹後守は奉行所(後の大森代官所)を大森に移した為、政治、行政、経済の中心地としての重要性は次第に失われました。
ただし、多くの間歩や精錬所は当地区にあり、江戸時代初期には柵が巡らされ外界から遮断され、出入口には番所が設けられなど厳重に管理されました。現在でも多くの間歩の跡や宗教施設、城跡などが残っています。
銀山柵内地区:上空画像
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