龍源寺間歩(大田市大森町)概要: 龍源寺間歩は江戸時代中期の正徳5年(1715)に開発された代官所直営の間歩で「御直山」と呼ばれました。坑道は高さ1.6〜2.0m、幅0.9〜1.5mで水平距離が約630m(公開しているのは旧坑道156m、新坑道116m、新坑道は栃畑谷へ通り抜ける為の連絡通路)あり、そこから鉱脈沿いに20余りの細く小さな坑道が延びています。
江戸時代に掘削された部分はノミ等当時の道具の跡が随所に残され竪坑や斜坑、永久坑(永久坑とは龍源寺間歩の排水用の坑道で元禄6年:1693年〜天明7年:1787年に開削、しかし、この坑道からも良好な鉱物が発見された為、新たに製錬所が設置されました。
明治時代以降も掘削され大正12年:1923年まで続けられました。)なども見られます。「御直山」の中では永久間歩、大久保間歩、新切間歩、新横相間歩と共に「五か山」と呼ばれ良質の銀鉱石が数多く掘り出され幕府の財政に貢献し、規模としては大久保間歩に次ぐ大きさでした。
当初は福石が産出していましたが時代が下がると黄銅鉱、黄鉄鉱、方鉛鉱なども採掘されるようになり江戸時代後期には永久坑の更に下部に水抜き坑を設けた事でそこからの採掘も可能となりました。
坑道の前には四ツ留役所が設けられ詰所には山方掛(3人)や同心(1人)、地役人などが監督や見張りなどの業務を行い、鏈置場も設置されました。
龍源寺間歩は大変貴重な事から昭和44年(1969)に「石見銀山遺跡」として国指定史跡に指定されています。
龍源寺間歩:上空画像
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