松江城(日本三大湖城)概要: 慶長5年(1600)の関が原の戦いの功で堀尾吉晴は24万石で出雲、隠岐の領主として入封し月山富田城に入城しました。
月山富田城は尼子氏、吉川氏の居城として長く出雲の中心として機能してきましたが、所謂中世の山城で、戦が少なくなった江戸時代では軍事よりも経済、行政に長けた交通の要衝で平地が好まれました。
慶長8年(1603)には松江城の築城許可が下り2代堀尾忠氏が築城を開始しましたが26歳の若さで死去、3代堀尾忠晴が7歳だったこともあり、事実上吉晴が松江城の縄張りや監督をはじめ藩政を行いました。
慶長16年(1611)、松江城の完成直前に吉晴は死去しましたが、城郭の普請も無事終わり、松江の基礎を築いた人物として称えられています。
寛永10年(1633)、忠晴が死去すると跡継ぎがなく堀尾家が断絶となり、代わって京極忠高が小浜藩(福井県小浜市)から24万石で松江藩に入封しています。
京極忠高の先代は2代将軍徳川秀忠の継室である江(崇源院)の妹、初(常高院)を迎え、忠高自身も秀忠の女・初姫(高次正室・常高院の養女)を娶るなど徳川家の信任が篤く、上記に加えて隠岐国1万8千石と天領である石見銀山と石見国邇摩郡・邑智郡など4万石の統治権も得ています。
これは、長州藩の毛利家を抑える為の大抜擢であり、忠高もそれに答えて松江城の3の丸などを増築し防衛力の強化に努めています。
寛永14年(1637)忠高が死去すると末期養子として高和を立てましたが認められず、寛永15年(1638)に松本藩(長野県松本市)から松平直政が18万6石で入封します。
松平家は10代明治維新まで続き、明治4年(1871)には廃藩置県により松江城は廃城、松江県庁に譲渡されます。しかし松江城の維持に尽力しなかった為、荒廃し明治8年(1875)には民間に払下げとなり大部分の建物は破棄、天守閣も競売にかけられましたが、寸前のところで有志が資金を集め保存されることになりました。
松江城は昭和9年(1934)に国指定史跡、松江城天守閣(4重5階、地下1階、平屋付櫓付、現存する天守閣の中では最大の木製鯱を掲げる。)が昭和25年(1950)に国指定重要文化財にそれぞれ指定され(※松江城天守閣は平成27年:2015年に国宝に指定されています)、平成18年(2006)に日本100名城に選定されています。又、松江城は高島城(長野県諏訪市)、膳所城(滋賀県大津市)と共に日本三大湖城に数えられています。
松江城:上空画像
|