美保関(歴史)概要: 美保関は古くは「美保之碕」と呼ばれていました。天平5年(733)に編纂された出雲国風土記の国引き伝説によると美保之碕は北陸地方から引いてきた土地とされ、当時から北陸地方と強い繋がりがあったと思われます。
国譲りの際には事代主命(大国命の御子神、美保神社の祭神)が釣りを楽しんだと云われる「沖の御前島(出雲国風土記では等々島、現在は美保神社の飛地境内地)」や「地の御前島(出雲国風土記では土島、現在は美保神社の飛地境内地)」があり神話の舞台でもあります。
美保関は島根半島の先端にあたり隠岐の島や朝鮮半島に望めるなど海上交通の重要拠点として古くから重要視され、室町時代には幕府の管理下に入り関所からは多額の上納金が上がったと伝えられています。戦国時代には毛利氏と尼子氏が美保関を巡り攻防戦が繰り広げられ、美保神社も兵火により社殿が焼失しています。
江戸時代に入ると北前船の寄港地として多くの物資が集められ、漁港としても整備された為、その繁華街は西日本有数とも言われました。明治時代に入り交通網が整備されると海運の拠点としての重要性が失われますが、その後は観光地として開発されています。
美保関:上空画像
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