大田市(歴史)概要: 大田市の海岸は神話の時代、素戔嗚尊が五十猛命と大屋津姫命、抓津姫命を連れ立って新羅から上陸した地とされています。大国主命と少彦名命が仮宮とした静之窟や地名として韓島や韓郷山などが残り、天平5年(733)に編纂された出雲国風土記に記された国引き神話に出てくる「佐比売山」は三瓶山とされています。行恒古墳や大西大師山横穴墓群、庵寺古墳群などが点在し、特に庵寺古墳群は古墳時代前期に築造された古墳で同時代では石見国最大級の規模を持っています。市井深田遺跡では8〜9世紀の建物跡が28棟が発見されるなど比較的早くから開けていたと考えられます。
中世に入り石見銀山が開発されると飛躍的に発展し、日本最大の銀山として最盛期には約20万人の人口を抱えました。石見銀山がもたらす富は絶大で古くから支配権を巡り攻防戦が繰り広げられ、戦国時代には大内氏や毛利氏、尼子氏が激しく争っています。江戸時代に入ると幕府の直轄地となり石見銀山奉行所が設けられ代官所支配となります。
又、大田市の中心部は山陰道、雲州街道、備後街道の結束点の宿場町として発展し石見国の益田、浜田と共に石見三田と呼ばれ、多くの物資が集められ市場町としても発展しました。石見銀山や温泉津温泉など当時の町並みが色濃く残り歴史的にも重要なことから「石見銀山遺跡とその文化的景観」として世界遺産に登録されました。
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