【 概 要 】−西暦594年、推古天皇(日本初の女帝第33代天皇)が重い眼病を患っていました。それを知った信濃国(現在の長野県)出身の智春上人が霊水を求めて全国を探したところ、当地に流れ落ちる浮浪滝の水が霊力が漲っていた事から、早速採水し推古天皇に献上しました。推古天皇はその霊水で眼を洗うと不思議な事に眼病が平癒した事から霊地と悟り、智春上人に勅令を出し、天皇の勅願寺が創建されました。浮浪滝には古くから主である「鰐」が住んでいると云われ、智春上人が修行中に誤って仏器を滝壺に落とすと、その「鰐」が仏器を智春上人の枕元に戻し姿を消したとし、この伝承から何時しか「鰐淵寺」と呼ぶようになったとも云われています。浮浪滝は修験僧の霊地として知られるようになり、滝の中間には崖造の蔵王堂が建立されており、現在でも荘厳な雰囲気が漂っています。平安時代に入ると、天台宗の高僧として知られた慈覚大師円仁が出雲巡錫の折当寺を訪ね、天台宗の寺院に改宗させ、比叡山延暦寺(滋賀県大津市坂本)の初めての末寺になったとされます。中世に入ると、出雲国一宮で、出雲神話の中心的な存在だった出雲大社と関係を深め、何時しか別当寺院として神仏習合するようになり、さらに、出雲国守護職佐々木氏(塩冶氏)の庇護により、益々寺運が隆盛します。時代が下がると、それぞれ本尊が異なる北院と南院が分裂して対立するようになり、特に南北朝の動乱では北院が北朝方、南院は南朝方に属してそれぞれ独自に行動し、南院の頼源大師は後醍醐天皇と行動を共にし、隠岐脱出にも尽力した事から天皇より宸筆の願文(国指定重要文化財)を賜っています。戦国時代には大大名となった毛利家の庇護を受け堂宇の造営や寺領の寄進が行われ大きく発展しましたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏の勢力が大きく後退した事を受け、鰐淵寺も往時の繁栄からは衰退を余儀なくされています。江戸時代には出雲大社との関係も薄れています。
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