倭の五王まで・私論・空論






勝手に私論・空論します。
○  ・当時の年の数え方2倍年。ようは1年間を2年間として年を数えていたようです。
   ・春から秋が1年、冬から夏が1年という数え方だったらしいです。   
   ・又、崇神天皇の没年を干支により戊寅年と記載しているので318年に崩御した説があります。
   ・当時は十干十二支と呼ばれる60年周期で年の名称が振り分けられ戊寅年は西暦でいうと318年に当たります。
   ・崇神天皇の崩御の年を318年より前に設定すると258年、後に設定すると378年になります。
   ・崇神天皇318年に崩御を仮定して私論・空論した天皇の系図に当てはめてみます。
 名 称在位期間在位年
初代神武天皇247年〜284.5年37.5年
2代崇神天皇284.5年〜318年33.5年
3代垂仁天皇318年〜367.5年49.5年
4代景行天皇367.5年〜397年29.5年
神功皇后397年〜431年34年
5代応神天皇431年〜451年20年
空位451年〜452.5年1.5年
6代履中天皇+仁徳天皇(架空)452.5年〜498.5年46年
7代反正天皇498.5年〜500.5年2年
8代允恭天皇500.5年〜521年20.5年
9代安康天皇521年〜522.5年1.5年
10代雄略天皇522.5年〜534年11.5年
11代清寧天皇534年〜536年2年
12代顯宗天皇536年〜537年1年
13代仁賢天皇537年〜542年5年
14代武烈天皇542年〜546年4年
15代継体天皇546年〜558年12年
16代安閑天皇558年〜560年2年
17代宣化天皇560年〜562年2年
18代欽明天皇562年〜578年16年
19代敏達天皇578年〜584.5年6.5年
20代用明天皇584.5年〜585.5年1年
21代崇峻天皇585.5年〜589年3.5年
22代推古天皇592年〜 

   ・これで推古天皇の在位とは3年差となります。
     ・神武天皇の在位が247年というのが興味深い所です。一説には卑弥呼の死亡年が247年説(一般的には248年頃)もある為、後継の男王に神武天皇を比定いるのかも知れません。
     ・好太王碑に出てくる年代と神功皇后の在位がかなりリンクしています。
     ・私論・空論では神功皇后の三韓征伐は架空としましたが、在位期間中に朝鮮半島に進出していたのかも知れません。(当然神功皇后が半島に渡った訳ではありません。)
   ・「古事記」、「日本書記」の復元年を計算している人はとても複雑に方式を立てているようです。
   ・私のような素人にはなかなか読解力が無く理解を諦めてしまいました。
   ・その為、単純に2倍年を加算しただけなので、実際の在位期間が大きく異なっていると思います。
   ・履中天皇以前の天皇の在位が後の天皇の在位よりも長いのも気になります。(現代的にみると問題ありませんが当時の寿命を考えると微妙な感じです。)
   ・当然、一般的に倭の五王とされる天皇とは全くリンクしてきません。
   ・上の表からすると神功皇后、応神天皇、履中天皇という事になりますが、人数も関係性もかなり食い違います。

   ・そこで古事記に記載されている天皇の崩御年をまとめてみました。
 名 称在位期間在位年
初代神武天皇−年
2代崇神天皇318年
3代垂仁天皇−年
4代景行天皇−年
成務天皇355年
仲哀天皇362年
神功皇后−年
5代応神天皇394年
空位−年
仁徳天皇427年
6代履中天皇432年
7代反正天皇437年
8代允恭天皇454年
9代安康天皇−年
10代雄略天皇489年
11代清寧天皇−年
12代顯宗天皇−年
13代仁賢天皇−年
14代武烈天皇−年
15代継体天皇527年
16代安閑天皇535年
17代宣化天皇−年
18代欽明天皇−年
19代敏達天皇585年
20代用明天皇587年
21代崇峻天皇592年
22代推古天皇628年

   ・となります。古事記でも古代の天皇の年齢が100歳を越える事が非常に多かった為、取り上げず崇神天皇の崩御年戊寅年を318年に仮定して記載されている十干十二支を逆算しました。
   ・崩御年だけみると大きな違和感が無くなり、記載無しの天皇が多いのも妙にリアルに感じます。
   ・「古事記」、「日本書記」が編纂されている年から見ると、数百年前の記録でもあり、全ての天皇の生年月日や在位年間が明確だったとはとても思えません。
   ・上記の表に私論・空論した天皇の系図に当てはめてみます。
 名 称在位期間在位年
初代神武天皇−年
2代崇神天皇318年
3代垂仁天皇−年
4代景行天皇−年
神功皇后−年
5代応神天皇394年
空位−年
6代履中天皇432年38年
7代反正天皇437年5年
8代允恭天皇454年17年
9代安康天皇−年
10代雄略天皇489年
11代清寧天皇−年
12代顯宗天皇−年
13代仁賢天皇−年
14代武烈天皇−年
15代継体天皇527年
16代安閑天皇535年8年
17代宣化天皇−年
18代欽明天皇−年
19代敏達天皇585年
20代用明天皇587年2年
21代崇峻天皇592年5年
22代推古天皇628年36年

   ・まあ、空白が多い為、どうとでも解釈が可能です。
   ・倭の五王としては
   ・421年と425年に宋に朝貢した「讃」には履中天皇。
   ・438年に宋に朝貢した「珍」には反正天皇。(移動距離もある為1年間位の誤差は生じると思われます。)
   ・443年と451年に宋に朝貢した「済」には允恭天皇。
   ・462年に宋に朝貢した「興」は安康天皇。
   ・478年に宋に朝貢した「武」は雄略天皇ということになります。
   ・ただし、「古事記」の編集者は宋に朝貢した権力者の存在を知っていた為、意図的に割り当てたとも考えられます。
   ・こう考えてみると、キーになる天皇の前後や私論・空論で架空とした天皇の崩御年が明確なのは逆に不自然にも感じられます。
   ・逆に「古事記」編集当時である程度正確な資料は敏達天皇以降で、それ以前は天皇の名称や部分的な記録、伝承、口伝、不明確な豪族の記録などが主として取りまとめられたように感じます。

○ 編集後記
   ・まったく素人が興味本位で記してみました。
   ・それにあたって、10数冊本やサイトを斜め読みしましたが、多種多様の説が入り乱れていました。
   ・中には九州王朝説や朝鮮の騎馬民族制圧などもあり、興味深いものもありました。
   ・これには「古事記」、「日本書記」に対する認識の違いがあります。
   ・あくまで「古事記」、「日本書記」は事実を基にして編纂されているのか、
   ・それとも大筋作り話なのか、
   ・特に邪馬台国九州説の人は「古事記」、「日本書記」に大きな関心を持っているように感じられます。
   ・神武東征や神功皇后東征などは邪馬台国が東征してヤマト政権を樹立したと捉えられるからです。
   ・変わって邪馬台国畿内説では邪馬台国が発展しヤマト政権を樹立したと考えるのが自然ですから神武東征や神功皇后東征などは作り話と捉えています。
   ・「古事記」、「日本書記」にしても確証が殆どない為、捉えようによっては幾つも説が作れます。
   ・自分の説を補完するものは是、つじつまが合わないものは編集者の都合で事実を曲げているとすればどんなことでも言えます。
   ・色々な文章を読んでいると、推測や、推理、思う、考えといった単語を数多く見かけます。ある意味確証が薄いとも言えます。
   ・邪馬台国畿内説では主に考古学が後押ししています。
   ・魏志倭人伝を見る限り畿内説にはかなり無理があります。誤記している事が前提になっているからです。
   ・どちらにしても3世紀後半には明らかに畿内の文化が周辺地域に広がっている事は考古学が示しています。


   ・全くの空想・想像・感想でした(都合の良い事象は「古事記」、「日本書紀」を引用し悪い部分は編纂当時の権力者が改ざんしたことにすれば数多くの空想が作り出せます。)。ありがとうございました。