欠史八代から応神天皇まで・私論・空論


欠史八代から応神天皇までを勝手に私論・空論します。
○ 前ページのおさらい。大国主、事代主神の築いた政権を引き継いだ饒速日命、長髄彦政権は強大で、邪馬台国は狗奴国の王族の後に神武天皇と呼ばれる人物を擁立し
   狗奴国と同盟を結びましたが、到底対抗出来ず、安芸、吉備、尾張、伊勢といった出雲権力外の有力豪族の力を得てとりあえず戦いに備えました。
   しかし、戦闘での勝利は出来ず(局地戦では勝利)結局、饒速日命を凋落させた事で、長髄彦は大義名分を失い総崩れとなり、何とか勝利したと思われます。


○ 欠史八代とは2代綏靖天皇から9代開化天皇まで実績や逸話などが無い為、「古事記」、「日本書紀」の編集者が創作したとされる考え方で、
   初代神武天皇と10代崇神天皇が共に「初めて天下を治めた天皇」と呼ばれる事から神武天皇と崇神天皇が同一人物とも云われています。
   一般的な解釈としては神武天皇の即位年を紀元前660年に設定した為、実際の天皇の人数に対して支配年が極端に長くなりすぎ為に作為的に年齢や架空の天皇を創出したとされます。

○ 私の私論・空論では神武天皇と崇神天皇は政治的や政策的な流れを感じます。いわば連続している印象を受けます。ただ同一人物かと言えば多分違うと考えています。
    ・「古事記」、「日本書紀」の記述を全て信じる事が出来ませんが、神武天皇が日向を出て、東征を完遂するのに16年余りの時間をようしています。
      ・「日本書記」では東征には3年半かかっていますが、これは神武天皇が短い期間で東征を完遂させた事にして神格化を強調する為に書き換えられたのかも知れません。
    ・当時の15歳以上に達した者の平均死亡年齢は男性で30.5歳です。(大君は庶民に比べて衛生的な住居と豊富な食事を取っていたと思われるので平均よりは多少長寿かと思います。)
    ・どのような数字を採用するのかは難しいですが東征を完遂し崇神天皇が行った業績をカバー出来るとは常識的には考えられません。初代神武、2代崇神と考えるのが自然と思います。
    ・神武東征は所謂、邪馬台国の東遷や狗奴国の東遷ではありません。あくまで、饒速日命、長髄彦政権打倒の討伐軍でしかありません。
    ・その為、当初のヤマト政権は大きな基盤ではなく、基本的には饒速日命、長髄彦政権を引き継ぎ、有力豪族の協力無しでは成り立た無かったと思われます。
    ・2代目となる崇神天皇は不満分子の一掃の為に四道将軍を派遣する一方で、各有力豪族の配慮の為、神社を創建や婚姻関係を強化していきます。
    ・崇神天皇が創建した神社は、邪馬台国を配慮した伊勢神宮。
      ・崇神天皇は天照大神の御霊を現在の奈良県桜井市三輪に勧請して伊勢神宮の祖となる神社を創建しています。
    ・出雲国を配慮した大神神社。
      ・大物主(大国主の和魂)の御霊を勧請して大神神社を創建。
    ・吉備国を配慮した石上神宮
      ・吉備国に鎮座していた石上布都魂神社の御神体である布都御魂剣を勧請して創建。ただし、後年は物部氏の氏神となる。
    ・狗奴国を配慮した日向御子を三輪山山頂に鎮座。
      ・日向御子は狗奴国王族の氏神と思われます。規模は小さいものの、大神神社を参拝すると必然的に日向御子を参拝した事になります。
      ・他の有力豪族の神社の規模を大きくする一方でその神社を見下ろしています。
    ・大和地方の豪族を配慮した大和神社。
      ・大和地方の地主神とされる日本大国魂神を勧請して大和神社を創建。
    ・このように崇神天皇は各豪族のパワーバランスの中で微妙な舵取りが要求されました。

○ では欠史八代とは何なのでしょうか?
    ・1つはやはり神武天皇の即位年を紀元前660年に設定した為、どうしても期間を埋める要素が必要です。(その溝を埋める為、ある一定期間、各天皇の寿命が以上に長い。)
    ・そしてもう1つは初代神武天皇と2代崇神天皇の間にどうしてもいれなければならない家系があるのです。
    ・ただし、その家系は天皇としての実績がありませんし、初代神武天皇と2代崇神天皇の間に存在している訳ではありません。だから空虚な名前などしか記入出来ないのです。
    ・その家系とは、狗奴国王族のことです。
    ・本来であれば狗奴国王族の初代が綏靖天皇で9代が神武天皇、10代が崇神天皇といったところでしょう。
    ・しかし、神武天皇は天照大神の直系でなければなりません。
    ・そこで崇神天皇を「初めて天下を治めた天皇」=神武天皇と見立ててあたかも同一人物のようにして天照系と狗奴国王族系の家系を並列しているのです。
    ・「古事記」、「日本書記」を編集している時代の天皇にとって天照大神からの直系という理は絶対です。ですが本当の祖先も忘れてはいけません。
    ・ですから一見不自然にも見えるこの系図が生まれてくる訳です。
    ・ちなみに
    ・2代綏靖天皇 - 神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)
    ・3代安寧天皇 - 磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)
    ・4代懿徳天皇 - 大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)
    ・5代孝昭天皇 - 観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)
    ・6代安天皇 - 日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)
    ・7代孝霊天皇 - 大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)
    ・8代孝元天皇 - 大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)
    ・9代開化天皇 - 稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおびびのすめらみこと)

    ・魏志倭人伝の狗奴国の王の名は卑弥弓呼「ひこみこ(彦御子)」

・有力豪族の祖が欠史八代になっているのは狗奴国出身の王(天皇家)の側近に一族や血縁者が多くその後、豪族となったと思われます。
      ・四道将軍の大彦命(孝元天皇の皇子の家系と思われる:阿倍氏の祖)や吉備津彦(孝霊天皇の皇子の家系と思われる。吉備氏の祖)はその典型で蘇我氏なども輩出しています。


○ 次ぎは11代垂仁天皇から15代応神天皇までです。個人的にはこの世代が想像、空想が難しく感じます。
    ・まず12代景行、13代成務、14代仲哀の称号「タラシヒコ」は7世紀で実在が確実視されている天皇の称号の為、12、13,14代は「古事記」、「日本書記」の編集者が作為的に造り上げたとも云われます。
    ・11代垂仁天皇は事績の殆どが物事の起源に纏わる事なので実在が疑問視されています。
    ・又、この世代に大きく関わってくる、日本武尊は架空の人物と推定されています。(1人の実績としてあまりにも壮大なので、複数人説などが有力です。)
    ・又、この世代に大きく関わってくる、神功皇后は架空の人物と推定されています。(「日本書記」では邪馬台国の卑弥呼の実績を重ね合わせています。又、三韓征伐した人物とされています。)
    ・又、この世代に大きく関わってくる、武内宿禰は謎の人物とされています。(極端に長寿命、最長で360歳説がある。)
    ・15代応神天皇は14代仲哀天皇の死後、1年後に神功皇后から生まれています。(普通であれば10月10日、応神天皇の出生が謎とされます。)
    ・14代仲哀天皇は架空の人物と推定されている日本武尊の子供とされます。(架空の人物から生まれたので仲哀天皇も架空の人物では?架空の仲哀天皇を父親とする応神天皇の出生が謎。)
    ・とまあ、登場する人物が全て謎に包まれてます。

○ もう一度おさらいします。
    ・邪馬台国と出雲国の同盟により大国主が版図を広げ所謂、葦原中国平定を果たします。
    ・その葦原中国の王位を邪馬台国から迎える事が所謂、国譲り
    ・邪馬台国からは天忍穂耳、天菩比命、天津彦根命(天若日子)3代を王として迎えます。
    ・天津彦根命(天若日子)は無断で大国主の娘と結婚した為、邪馬台国側から暗殺。
    ・この事件により当時の摂政である事代主神は失脚し不穏の死を遂げます。
    ・事代主神の後継者である長髄彦は天津彦根命の子供である饒速日命を擁立し新政権を樹立。
    ・邪馬台国は狗奴国の王族(後の神武天皇)を擁立し討伐軍を編成し長髄彦を駆逐これが所謂、神武東征
    ・神武東征には反出雲の豪族の協力が不可欠だった為、極めて基盤が脆弱な政権が誕生。

○ 次ぎに当時の勢力バランス
    ・当時の大陸から倭王として認められ、王位の決定権があったと思われる邪馬台国が1位。
    ・2代に渡り王位を務めた狗奴国が2位
    ・神武東征を支援した有力豪族が3位
    ・出雲国残存勢力が4位
    ・出雲国に従った地方豪族が5位
    ・といったところでしょうか?これらの国々の協力の元に脆弱な政権が誕生したわけです。

○ 私の私論・空論では
    ・西暦316年に晋(西晋)が滅んだ事により後ろ盾を失った邪馬台国が急速に権威を失墜させたと思われます。
    ・元々、小国の集合体だった邪馬台国の政治基盤や軍事力は脆弱で権威を失った事で国の存在自体が問われる事態に。
    ・崇神天皇の推定没年西暦318年を採用すると、当然、この頃に3代目の跡継ぎ問題が顕著化。
    ・当然、狗奴国は邪馬台国に対して3代目も狗奴国の王族から決定するように強く求めたのではないでしょうか?
    ・邪馬台国としてはこれ以上狗奴国の権力を増大させるのを防ぐ為に大和地方周辺の豪族を王位に迎えた。
      ・垂仁天皇は協力相手として出雲を選んだと思われます。当然、自国より強大だった狗奴国や吉備国とは組しなかったようです。
    ・これが11代(私論では3代目)垂仁天皇の誕生です。私の私論・空論では実在したと考えています。
    ・前任の崇神天皇とは垂仁天皇とは血の繋がりは無く、不満分子による反乱がおき何度か討伐を繰り返してます。
    ・12代景行天皇も私の私論・空論では実在したと考えています。
    ・元々、狗奴国は自らの王族から王(天皇)を輩出する為に邪馬台国と同盟を結んでいた為、この行為により事実上同盟決裂となります。
    ・狗奴国は邪馬台国領内に侵攻し、その討伐軍として当時のヤマト政権が何度も九州に派兵を繰り返しているのです。
    ・「古事記」や「日本書記」では景行天皇とその皇子である日本武尊、その子供とされる仲哀天皇は執拗し九州に派兵している様子が記されています。
    ・ただし、「古事記」、「日本書記」では邪馬台国や狗奴国の国名は出てきていません。編集当時の政権にとって何とも都合が悪い訳です。
    ・高天原としていた邪馬台国が天皇出身の狗奴国によって滅ぼされ、さらに当時の政権が天皇出身の狗奴国に向けて討伐軍を繰り出しているのですから。
      ・そこで「古事記」、「日本書記」では狗奴国を熊襲として書くことにしたのかも知れません。
    ・狗奴国は半ば強引に邪馬台国を併合、邪馬台国最後の女王と思われる後の神功皇后をヤマト政権の新女王として擁立し、ある意味正規軍である討伐軍を撃破し仲哀天皇は無念の戦死を遂げています。
    ・その後は神功皇后を女王とする旗印で東征し、不満分子を掃討しながら大和まで進軍します。
    ・当時の狗奴国の王は武内宿禰、そして応神天皇は武内宿禰と神功皇后の子供になるという訳です。

    ・と上記のように私論・空論・想像・妄想してみました。
    ・私自身、研究者でも無く、資料を深く読み込んだ訳では無い為、何の証拠も確証もありません。
    ・あくまで印象的ですが崇神天皇と垂仁天皇の治世は連続性があまり感じられません。
    ・垂仁天皇は出雲に接近し、急に治世が乱れたという印象を受けます。新たな政権が発足した為、反対勢力が発生したとも考えられます。(崇神天皇の甥に当たる狭穂彦王の叛乱など)
    ・景行天皇の治世も乱れたままで、熊襲という敵が急に浮上した感があります。
    ・九州には邪馬台国と狗奴国の大国があり客観的に見ても天皇自ら討伐軍を率いて反対勢力と対峙するとは考えられない。(古事記では景行天皇の熊襲征伐の記入無し。)
    ・景行天皇が熊襲を平定したはずなのに、仲哀天皇は再び熊襲を討伐する為に自ら軍を率いて九州に入っています。
    ・そして、日本武尊も少年期に熊襲討伐に参加しています。
    ・これらは、天皇自ら解決しなければならない巨大な敵が九州に発生したと考えられます。
    ・そこで狗奴国が邪馬台国を急襲し、政権側が討伐軍を派遣したと推測した訳です。

    ・神功皇后は三韓征伐、所謂、朝鮮半島を支配下に入れた人物で、日本書記では卑弥呼と比定しているとも取れるように記載されています。
    ・又、仲哀天皇の妻として熊襲を討伐に随行し、神託が降りると熊襲では無く新羅を討つように進言、仲哀天皇が神託を無視し熊襲を攻めると、死が訪れています(死因は資料によって異なる)。
    ・その後、再び新羅を攻めろという神託が降り、妊娠中でも朝鮮半島に渡り新羅に攻め込み勝利すると、帰途の途中九州の宇美で応神天皇を産んだと記載されています。

    ・大分混乱してきました。
    ・もう一度見直してみます。
    ・「古事記」や「日本書記」は事実や伝承、記録などを参照し、編集した当時の政権の正当性と天皇の神格化を現したものと考えられます。
    ・すると、応神天皇を正当化しなければなりません。
    ・応神天皇を正当化する為には神功皇后を正当化しなければなりません。
    ・しかし、正当に受継がれてきた仲哀天皇の政権にとっては神功皇后や武内宿禰が行った行為は反乱であり、クーデターであり反政府、反社会的であり決して許される行為では無かったはずです。
    ・又、神功皇后や武内宿禰が行った行為は編集当時の政権にとっても社会規範的にも肯定する訳にはいきません。
    ・という風に仮定して私論・空論・想像・妄想してみました。
    ・まず仲哀天皇の政権を正当化する為、九州に蔓延る熊襲の平定の為に進軍した事にします。当時の政権にとっては正当な行為です(しかし、単なる賊ごときで天皇が出兵する事は有得ませんが。)。
    ・神功皇后や武内宿禰を正当化する為には、狗奴国や邪馬台国の国名を出す訳にゆかず、熊襲という隠語を用いています。
    ・そして仲哀天皇の死が、あたかも、神降りした神功皇后の神託を無視した事で罰が下った事にしています。
    ・これは、神功皇后や武内宿禰が悪いのでは無く、神の啓示を無視した仲哀天皇が悪いのだと言い換えています。
    ・しかし、実際は神功皇后と武内宿禰の軍に敗れ、戦死か自決、暗殺されたと思われます。
    ・仲哀天皇の後継は本来であれば香坂王か忍熊皇子が継ぐはずでしたが香坂王は赤い猪に食べられ、忍熊皇子は神功皇后と武内宿禰の軍に敗れ不遇の死を遂げています。
    ・ここでも香坂王か忍熊皇子に正当性があるのですが、占い(神託)で凶と出ていたのに関わらず行動起こした両者が反乱者として扱われています。
    ・逆に応神天皇は生まれる前から神託によりこの国を定めるように告げられたとされ、正当化されています。
    ・神功皇后と応神天皇を正当化する為に、神功皇后は仲哀天皇の后、応神天皇は仲哀天皇と神功皇后の子供とされますが、一連の事柄も極めて疑わしいと思われます。
    ・実際、神功皇后は仲哀天皇の死に大きく関わっており、単なる後継者争いだったとは到底思えず、仲哀天皇の后だった事も疑わしいと思われます。
    ・となると、仲哀天皇は神功皇后と応神天皇の正当化をする為に造り上げられた人物だったとも考えられます。
    ・では12代とされる成務天皇はどうでしょうか?成務天皇は欠史八代のように明確な実績が無く存在を疑問視されています。(病弱で子供が無く、甥である仲哀天皇を皇太子にしたとも思える。)
    ・又、成務天皇と武内宿禰の生年月日が同じという一見信じられ無い一致で恣意的な印象を受けます。因みに日本武尊は成務天皇と兄弟で同年に生まれたという説もあります。

    ・もう一度考えています。景行、成務、仲哀の称号「タラシヒコ」は7世紀で実在が確実の天皇の称号の為、12、13,14代は「古事記」、「日本書記」の編集者が作為的に造り上げたとも云われます。
    ・又、11代垂仁天皇は事績の殆どが物事の起源に纏わる事なので実在が疑問視されています。

    ・例えば景行天皇、成務天皇、仲哀天皇が同一人物の可能性は無いのでしょうか?
    ・例えば垂仁天皇、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇が同一人物の可能性は無いのでしょうか?
    ・例えば成務天皇、仲哀天皇が同一人物の可能性は無いのでしょうか?

    ・では系図(どこまで信用できるか解りませんが)から見てみると、武内宿禰は8代孝元天皇の曾孫。とすれば本来11代垂仁天皇と同じ世代ということになります。
    ・ですが13代成務天皇と誕生年月日が同じだとかなり矛盾が生じます。
    ・神功皇后は9代開化天皇の来孫とされますから、14代仲哀天皇と同じ世代ということになります。これはつじつまが合っています。
    ・架空の神功皇后を邪馬台国の卑弥呼に仕立てる為に皇后の摂政としての在位を西暦201年〜269年に設定したという説があります。
    ・確かに西暦239年に魏に使いを出し、親魏倭王の金印紫綬や銅鏡100枚を賜った事が魏志倭人伝に記されており、それに対応したと考えられます。
    ・しかも、「日本書記」の神功記には「魏志・・・・」の注釈があり、いかにも魏志倭人伝に記載されている卑弥呼と神功皇后が同一人物のような表現をしています。
    ・ただ、もし神功皇后が架空の人物であるならば、卑弥呼同様に独身で子供が無く、248年前後に死んでいるように設定した方が良いようにも感じます。
    ・古事記や日本書記では神功皇后は仲哀天皇の后で、応神天皇の母親となっています。これは明らかに異なり、崩御した年も異なります。
    ・人によっては同一人物のようで、同一人物でないことがミソだという説もあります。
    ・神功皇后が架空の人物であれば応神天皇は誰が母親で、何の為に正当な後継者と思われる香坂王か忍熊皇子が掃討されたのでしょうか?
    ・これも全て架空なのでしょうか?
    ・そう考えると神功皇后(又はモデル)は実在し、応神天皇を王位に就ける為に正当な後継者や反対者を掃討、ただし卑弥呼にも見えるように存在した年代がずらされたと考えると自然に感じます。

    ・さらに妄想は続きます。
    ・11代垂仁天皇は別系統の可能性を考えると崇神天皇と同年代と考えてもおかしくありません。
    ・すると12代景行天皇と武内宿禰は同年代と考える事が出来ます。
    ・又、武内宿禰が8代孝元天皇の曾孫とすれば、もしかすると崇神天皇の子供か正当な後継者の可能性もあります。
    ・本来、天皇にもなれた筈の武内宿禰は憤慨し、西晋が滅びた事で権威が失墜した邪馬台国に侵攻し、強引に併合、女王だった神功皇后を擁立しヤマト政権と対立します。
    ・当時の邪馬台国とヤマト政権の関係は鎌倉時代初期の朝廷と幕府のような関係だったと思われ、邪馬台国の危機を救うべく景行天皇が自ら軍を率いて九州に進軍します。
    ・熊襲が単なる地方の反乱ならば天皇では無く、四道将軍や、日本武尊、坂上田村麻呂といった将軍を派遣すれば良いはずです。
    ・天皇が軍を率いるのは、まさにこの乱が当時の政権の浮揚に左右する一大事件だったのです。
    ・この戦いのさなか、景行天皇は戦死、又は暗殺され、武内宿禰による掃討作戦が実施され、本来の正当な後継者である香坂王、忍熊皇子が不遇の死を遂げたのです。
    ・とすれば本来の天皇の系図は
    ・12代景行天皇⇒13代神功天皇(皇后)⇒14代応神天皇
    ・としなければなりません。しかし神功皇后を卑弥呼の年代に合わせようとすると
    ・12代景行天皇⇒13代○○○⇒14代神功天皇(皇后)⇒15代応神天皇
    ・となります。そこで、
    ・12代景行天皇⇒13代武内宿禰⇒14代神功天皇(皇后)⇒15代応神天皇
    ・としたいところですが、武内宿禰は正当な政権を倒した張本人でもあり、同じ生年月日の架空の成務天皇を武内宿禰にみたてて
    ・12代景行天皇⇒13代成務天皇⇒14代神功天皇(皇后)⇒15代応神天皇
    ・となった訳です。さらに神功皇后と応神天皇を正当化する為に架空の仲哀天皇を創出させ
    ・12代景行天皇⇒13代成務天皇⇒14代仲哀天皇⇒15代応神天皇
    ・となった訳です。武内宿禰は16代仁徳天皇の祖父に当たる為、本来は許容範囲内ですが、創作した系図では12代から16代にかけて政治に関わる人間とは思えない異常な長寿となった訳です。
    ・又、12代景行天皇の実績を架空である成務天皇、仲哀天皇に振り分けている為、その暗示として3名共に「タラシヒコ」の称号を掲げている訳です。
    ・又、神功皇后は反乱の片棒を担いだ訳ですが三韓征伐をした事にして一躍ヒロイン(読みようによっては卑弥呼)に仕立て上げられ全てが正当化されているのです。


    ・自己満足に浸りながら、もう一度見直して見ると
    ・引っかかる部分が1箇所あります。
    ・もし、成務天皇と仲哀天皇が架空の人物であれば成務天皇の子供が仲哀天皇でも何の差しさわりがありません。
    ・しかし、「古事記」、「日本書記」では成務天皇には子供が無く、仲哀天皇は成務天皇の兄弟である日本武尊の子供という設定になっています。
    ・当然、これも推測ですが
    ・編集者としては正当の政権だった景行天皇に敬意を示し系図上だけでも血統を繋ぎ、武内宿禰を見立てた成務天皇には子供が無く血筋としては断絶したようにしたかったのかも知れません。
    ・神功天皇が三韓征伐をしたヒロインならば、景行天皇側には日本武尊を悲劇のヒーローに仕立て上げバランスを取っているようにも見えます。
    ・当然、これも推測ですが
    ・日本武尊の前半の熊襲平定の成り行きは、今回のクーデターの経緯、関東への東征は本来の正当な後継者である忍熊皇子、死に際が香坂王だったと思っています。
    ・前半の日本武尊は小碓命と称し熊襲の棟梁である川上梟師(かわかみたける・古事記では熊襲建:くまそたける)を騙し討ちします。
    ・不思議な事にその川上梟師から名前を授かり、そこで倭(日本)武尊(やまとたける)と名乗るようになるのです。
    ・これは、正義だったものが悪となり、悪だったものが正義になった暗示では無いかと勝手に思っています。
    ・又、香坂王、日本武尊が共にイノシシによって致命傷を受けており、共通点が見出せます。
    ・当然、これも推測ですが
    ・日本武尊は尾張に深い関係を持っています。
    ・とすれば景行天皇は尾張系の豪族だったかも知れません。
    ・奇しくも、狗奴国系の天皇家が排除した邪馬台国の伊勢神宮、出雲国の出雲大社、尾張国の熱田神宮を鎮める事が国家安寧に繋がると考えられたのではないでしょうか?
    ・三種神器の内、鏡が伊勢神宮、草薙の剣が熱田神宮にあるのは両系統も正当な大君だった事に由来するのかも知れません。

    ・ちなみに「古事記」、「日本書記」では武内宿禰の子供と応神天皇の子供(仁徳天皇)の生年月日が同じで血脈を暗示させるように記載されています。
    ・又、混乱するように思えますが 
    ・武内宿禰の子供=応神天皇
    ・武内宿禰の子供=仁徳天皇
    ・応神天皇=仁徳天皇
    ・とも考えられるのです(個人的には)。
    ・別の説では「日本書記」に応神天皇の陵墓の記載が無い事から応神天皇の架空説や仁徳天皇同一説などがあります。
    ・又、忍熊皇子を討伐したとされる武振熊が仁徳天皇の代にも両面宿儺を討伐しており応神天皇=仁徳天皇の方が現実的ではあります。
    ・実績の一部が応神天皇と仁徳天皇がかぶるので同一人物説。
    ・血脈の薄いあるい全く無い仁徳天皇が新政権を樹立した為、架空の応神天皇を創出し正当性を演出した説。
    ・こうなると本当に良くわかりません。
    ・同一人物にする理由がいまいちどころか全く良く解りません。
    ・17代履中天皇以降は数代に渡り超短命の在位で謎とされる倭の五王に当てはまると云われています。
    ・又、これも謎が多いとされる26代の継体天皇は応神天皇5世の子孫とされていいます。
    

○ 私の私論・空論のまとめ
    ・初代神武天皇、10代崇神天皇、15代応神天皇は狗奴国派(神功皇后も同系列、奇しくも全て名前にが付いています。)
    ・欠史八代は神武天皇以前の狗奴国王族
    ・11代垂任天皇、12代景行天皇は尾張派(日本武尊は忍熊皇子、香坂王)
    ・17代履中天皇から25代武烈天皇までは海洋派(中国への朝貢の再開や朝鮮半島の進出、河内への遷都)
    ・26代継体天皇からは「古事記」、「日本書記」当時の政権に直結
    ・13代成務天皇、14代仲哀天皇、16代仁徳天皇は架空(仁徳天皇は15代応神天皇と17代履中天皇を足して割ったような存在。王位に就く時は3年間の空白があり履中天皇の政変が暗示されているように思える。)

    ・となりました。
    ・ようは、編集当時の政権を正当化する為には継体天皇をヤマト政権を創建した狗奴国派最後の王位と思われる15代応神天皇の血縁者にする必要になったと思われます。
    ・又、15代応神天皇、6代仁徳天皇、17代履中天皇の古墳では一番若い政権である履中天皇が一番古いとされます。
    ・これは履中天皇が政変を起こした為、応神天皇の古墳を築造せず、仁徳天皇も架空であるから元々古墳が築造されなかたのではないでしょうか?




   ・全くの空想・想像・感想でした(都合の良い事象は「古事記」、「日本書紀」を引用し悪い部分は編纂当時の権力者が改ざんしたことにすれば数多くの空想が作り出せます。)。ありがとうございました。

   ・とりあえず続きます。