神武東征・天孫降臨・国譲り・私論・空論


神武東征・天孫降臨・国譲りを勝手に私論・空論します。
古事記や日本書紀は後の朝廷の権力者が正当性や歴史性を強調、主張する為に製作されたものである。
これは納得が出来ます。
それでは、全く想像の産物なのか?かなり正確なものなのか?ある程度の事実が時の権力者の都合で誇張、偏重されたものなのか?
元々、古事記や日本書紀は700年代に編纂されたもので、邪馬台国があるならば400年以上前の事が書かれている事になります。
当時(弥生時代末期)、文字の有無は分かりませんが、あったとしても大きく発展していたとは思えません。
例え、真実を書こうにも口伝や伝承をまとめ、それを権力者の都合で編集している訳ですから、なかなか理解出来ない事が多いようです。
私も疑問だらけです。
私は研究者や専門家ではありませんので、詳しい事は調べませんし、解りません。
その為、かなり情緒的、狭義的、一方的に考察していきます。
まず、何故、大国主が「国譲り」を行ったのか?
何故、「国譲り」を受けたはずなのに神武東征が行われたのか?

大国主はスサノオの息子、スサノオの娘(須勢理毘売命)婿とも云われる実力者で
沼河比売(新潟県糸魚川市に鎮座する奴奈川神社の祭神)や
ヤガミヒメ(因幡国)
稲葉の八上比売(鳥取県八頭郡)
多紀理毘売命(福岡県宗像郡大島村沖ノ島:胸形の奥津宮)
勢夜陀多良比売
神屋楯比売
鳥取の神(八嶋牟遅の神の娘)
活玉依姫(陶津耳の神の娘)
美穂津姫(高皇産霊の尊の娘)
倭迹迹日百襲媛命(崇神天皇の姑)
胸形の辺津宮の高津姫の神(福岡県宗像郡玄海町田島)など
多くの妻を娶っています。
これは大国主が現在の福岡県から新潟県に至る日本海沿岸や長野県、近畿地方一帯を支配したとも考えられます。
当時、これほどの実力者はいませんし、有史以来始めて日本という国をまとめ上げた最大の功労者で
後に「国造りの神」として広く信仰される程の功績を挙げています。

その、大国主に国を譲って欲しいと望んだ人物がいます。
それは、古事記や日本書紀を編纂した大和朝廷の祖となる人物(神)、天照大神です。
天照大神は高天原に住む天津神で天皇の祖神とされる神様です。
それに対し、大国主は国津神とされ葦原中国を支配しているとされます。
葦原中国とは高天原と黄泉の国(死者の国)との間にある国、日本全土を指していると思われます。
高天原は黄泉の国の対になる存在で神聖な場所(天国や天上界・宇宙)ともされますが、実際は天照大神など天津神が支配した限られた地域と思われます。
天照大神や天津神は天照大神の子孫が葦原中国を支配するべきだと考えました。
ようは、我々の方が身分が高いから日本を支配するは我々だ。と考えたようです。

まず始めに天照大神の長男である天忍穂耳が葦原中国に派遣されますが、とても荷が重いとして早々と引き上げてしまいます。

次ぎに天照大神の次男である天菩比命が派遣されますが3年間音信不通となります。(大国主に服従したとみなされたようです。)

次ぎに天若日子が派遣されますが大国主の娘の下照比賣と結婚し8年間音信不通となり、
「雉の鳴女」が天若日子と連絡を取る為に派遣されましたが、天佐具賣にそそのかされた天若日子に矢でもって射抜かれます。
雉の鳴女を射抜いた矢は高天原まで届き、不振に思った高木神が葦原中国に投げ返し
天若日子に反意があれば彼を射抜け、なければ外れよと念ずると、矢は天若日子に突き刺さり死んでしまいます。

次ぎに建御雷神が派遣され大国主に天照大神の言葉を進言すると大国主は息子達に聞いて欲しいと答え
息子である事代主神は「承知した」と答えると姿を隠してしまい、
もう1人の息子である建御名方は力くらべを提案しましたが、力比べに破れ
諏訪湖の畔まで追い詰められると命と引き換えに服従を誓いました。
大国主は大きな宮殿を建てる事を条件に国譲りを承諾、建御雷神は高天原に戻り報告すると
天照大神の孫で、天忍穂耳の子供である瓊瓊杵尊が筑紫の日向の高千穂の久士布流多気に天孫降臨しました。

一応「古事記」をベースに書いていましたが同じような事が「日本書紀」にも書かれています。
多くの疑問がありますが1つは
何故、天忍穂耳、天菩比命、天若日子は殆ど抵抗した様子が窺えないのか?
1つは
何故、日本の多くの領土を支配した大国主と事代主神はあっさり国譲りを認めるのか?
1つは
何故、国譲りを受けたのに瓊瓊杵尊が筑紫の日向の高千穂の久士布流多気に天孫降臨したのか?
1つは
何故、国譲りを受けたのに神武天皇は東征しなければならなかったのか?


ここからは全くの空想・想像・感想ですが
○ 当初、女王(天照大神)が統治する邪馬台国とスサノオが統治する出雲国が同盟を結んだのではないのか?
  (天照大神とスサノオは姉弟の関係が同盟関係を暗示するのでは。)
○ 邪馬台国の女王(天照大神)は中国の魏から倭の国王を認められている事から
  その威光を傘にしてスサノオとその後継である大国主が支配地域を広げる事が出来、出雲から奈良地方に本拠を移したのではないのか?
  (出雲国単独では背後から九州勢に挟撃される。大国主は広範囲の姫達と結婚している。奈良周辺には大国主の痕跡が多い。)
○ 大国主は血筋、家柄などから日本国の王になる資格がなかったのではないのか?
  (スサノオ渡来人説には疑問ですが先祖が純粋な日本人でもなかったのかも?)
○ そこで邪馬台国と連立政権を樹立して邪馬台国から王を輩出させて出雲国から摂政を輩出させたのではないのか?
○ この取り決めで大国命は出雲に隠居し、事代主神が摂政に
  邪馬台国から天忍穂耳、天菩比命、天若日子が王として派遣されたのではないのか?
  (大国命は私の百八十神たちは、事代主神に従って天津神に背かないだろうと述べています。これは国を譲ったのでは無く、天津神(王)を補佐するという意味では。本当に国を譲ったのであれば事代主神に従う必要はないはず。)
○ この取り決めが「国譲り」なのではないのか?
  (宮殿を造ってもらうのを代価に広大な領地を譲るのはあまりにも不自然。大国命の実力ならば宮殿の10や20は余裕に造営出来るのでは。花を持たせて実を取るが真意では。)
○ その為、天忍穂耳、天菩比命、天若日子とは軍事衝突がなかったのではないのか?
  (上の3人が討伐として派遣されたのであれば軍事衝突しているはず、実際は王位に就いたものの傀儡になったのでは、天忍穂耳に至っては傀儡にもなれなかったのでは。)
○ そうのように考えると天若日子は天照大神の3男天津彦根命ではないのか?
  (天若日子の父親は日本書紀によると天国玉神火、どのような神かは不明。出生の不詳の天若日子が大役を任せられるのは違和感がある。)
○ 天津彦根命が邪馬台国側の意向を聞かず大国主の娘の下照比賣と結婚した為、殺害されたのではないのか?
  (暗殺に近いのでは?天若日子が天津彦根命とすると、天照大神の子供を殺した事は非常に体裁が悪い。又、殺すにしても直接手を下していないように書かれている。)
○ 事代主神は責任を取って出雲に隠居し殺害されたのではないのか?
  (国譲りの際は素直に建御雷神に従ったはずなのに御隠れ(死)になっている。罪を着せられ自殺に追い込まれたか?暗殺か?)
○ 長髄彦は事代主神の子供ではないのか?
  (一族長にしては強すぎる。長髄彦は事代主神の後継として出雲系の豪族を率いていたと考えた方が自然なのでは。)
○ 饒速日命は天津彦根命(天若日子)と下照比賣の子供ではないのか?
  (結婚年は不詳ですが天若日子は8年間、葦原中国に居たので子供がいたことは十分に考えられます。饒速日命は天羽羽矢を所持、天若日子も葦原中国に向う際、天羽羽矢が与えられています。引き継がれた可能性もあるのでは。)
○ 長髄彦は幼少である饒速日命を擁立し新政権を樹立したのではないのか?
  (長髄彦は饒速日命こそ正当な王と主張している。饒速日命が天照大神の孫であるならば十分に王位継承の権利があるはず。)
○ 邪馬台国は長髄彦を摂政とは認めず、単なる族長扱いをしたのではないのか?
  (神武天皇軍が族長レベルの軍に苦戦するとは思えない。出雲一族と認めると長髄彦に大義名分が発生すると考えたのでは。)
○ 邪馬台国は饒速日命を天照大神の孫として認める事が出来ない為、天津彦根命を天若日子にしたのではないのか?
  (饒速日命を天照大神の孫として認めると長髄彦に大義名分(正当性)が発生すると考えたのでは。)
○ 邪馬台国は饒速日命を王として認めない為、新たな王を擁立した。これが天孫降臨という単語が必要になったのではないのか?
  (国譲りの後に天孫降臨したのであれば、大国主の領土を引き継ぐ為、奈良か出雲付近に天孫降臨するはず。)
  ・当然だが神話と実話が混在している。現実は高天原が天国でも無いし天津神が神様でも無い。天孫降臨は天国から神様が地上に降り立ったことではない。
  ・天孫降臨は概念的で抽象的、象徴的な単語であって具体的な天孫降臨地は存在しないと思われます。あたりまえかな?
○ だから天孫降臨が筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(九州地方)なのではないのか?
   ・新たに選ばれた王は九州を領土と思われる、邪馬台国か狗奴国の出身者ということになるのでは?多分、血脈的には饒速日命より薄い、その為、饒速日命の出生を隠し回りくどい言い回しとなっている。
   ・天照大神の3男天津彦根命の子供である饒速日命を越える血筋⇒長男である天忍穂耳の子供である瓊瓊杵尊を取り上げる必要性があった。4・5男の血筋では劣る、2男は3年間、傀儡政権に加担している。
   ・天忍穂耳は葦原中国に下った天菩比命や天津彦根命に比べて王位の在位が極端に短いか王位に就けなかったと思われる。本来ならば弟達よりも能力的には劣ると思われるが「古事記」では
   正勝吾勝勝速日天忍穂耳命として⇒正しく勝った。私が勝った。素早く勝った。と不自然に正当性が強調されています。
   ・天孫降臨が国譲りの直後に行われたのであれば、奈良か出雲に降臨し瓊瓊杵尊が王位を継承していたはず。
   ・天孫降臨が長髄彦の反乱(邪馬台国側から見て)直後にに行われたのであれば、瓊瓊杵尊が東征していたはず。
   ・この事から血筋としては瓊瓊杵尊が天孫降臨するべきだが実際には神武天皇が長髄彦の反乱(邪馬台国側から見て)直後に天孫降臨(ここでは邪馬台国が認めた王位に就いた)したと思われます。
   ・天孫降臨の場所の不思議。天孫降臨が「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気」とは普通に読むと筑紫とは現在の福岡県の南西部、日向とは現在の宮崎県と鹿児島県、高千穂の・・・は高い峰又丘・山などが想像できます。
   ・又、「古事記」では「此地(天孫降臨の地)は韓国に向ひ、笠沙の御前に真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。此地は、はなはだ吉き地」と書いています。
   ・韓国は朝鮮半島と見られますので天孫降臨の地は福岡県の南西部の山頂か高台で朝鮮半島が見通せそうな場所という事になります。
   ・もし、天照大神の孫である瓊瓊杵尊が天孫降臨したならば邪馬台国(北九州説をとるならば)の勢力圏が有力です。
   ・逆に縁の薄いと思われる現在の宮崎県や鹿児島県に瓊瓊杵尊が天孫降臨したならばかなり不自然と思われます。
   ・ここで神武天皇の生い立ちが際立ってきます。
   ・神武天皇が東征を開始する場所は日向(現在の宮崎県・鹿児島県)で、まず筑紫(現在の宮崎県南西部)に向って進軍します。
   ・瓊瓊杵尊が天照大神の孫で神武天皇が直径の子孫であれば北九州(邪馬台国北部九州説をとるならば)である筑紫から大和方面に進軍するはず。
   ・となると神武天皇は日向出身の可能性が高いと暗示させられます。
   ・饒速日命を越える血筋である瓊瓊杵尊の直径の子孫でなければならない神武天皇と瓊瓊杵尊を結ぶには、瓊瓊杵尊が日向に天孫降臨したことにする必然性があるわけです。
   ・その為、瓊瓊杵尊は天照大神の孫として筑紫に天孫降臨する必要と神武天皇の祖という立場から日向に天孫降臨する必要があるわけです。
   ・饒速日命、長髄彦政権より正当性を得る為には瓊瓊杵尊が「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気」に天孫降臨しなければならなかったのです。
      ・「古事記」・「日本書紀」は編集した当時の権力者がある史実と神話を混同させ、その権力の正当性と神格性を強めたと考えられます。
      ・当然、神話のような高天原や天津神は存在しません。そこには当時の支配者と支配地域があるだけです。
      ・では天孫降臨とは何でしょうか?もし、高天原や天津神が本当だとしたら、天孫降臨は神話の中でもターニングポイントの1つで印象的なシーンです。
      ・天孫降臨な史実の何を表しているのでしょうか?
      ・文脈の如く瓊瓊杵尊が大勢の共を連れて千数百mの高山を登山して山頂で何らかの儀式や神事が執り行われたのでしょうか?
      ・なかなか現代人には理解出来ないと思われます。
      ・神話では天の磐船(飛行船のようなものか?)に乗って高千穂の頂に降臨した事になっていますが、天の磐船は現在でいう何なのでしょうか?
      ・船によって川を上り高千穂の近くまで進み、そこから千数百mの高山を登山して山頂で何らかの儀式や神事が執り行われたのでしょうか?
      ・なかなか現代人には理解出来ないと思われます。
      ・「古事記」の中で天照大神の長男天忍穂耳が天降りして途中で引き返しました。これは天孫降臨ではないのでしょうか?
      ・「古事記」・「日本書紀」の中で天照大神の2男天菩比命が葦原中国を平定した大国主の元に遣わされたとありますが、これは天孫降臨ではないのでしょうか?
      ・「日本書紀」の中で天照大神の2男天菩比命の子供である大背飯三熊之大人が大国主の元に遣わされたとありますが、これは天孫降臨ではないのでしょうか?
      ・上記に出てくる神様達はわざわざ、どこかの高山に登り、儀式や神事を経て山を下り、大国主の元に遣わされたのでしょうか?
      ・天若日子(実際は天照大神の3男天津彦根命と思われる。)が大国主の元に遣わされたとありますが、天孫降臨とは違うのでしょうか?
      ・天津神と1人と思われる建御雷が葦原中国に遣わしたとありますが天孫降臨との違いとは違うのでしょうか?
      ・スサノオが下界に追放された出雲国の鳥髪に降り立ったとありませんが、天孫降臨とは違うのでしょうか?
      ・上記では天降り=遣わす、が成り立ちますが、天照大神の長男の直系である天忍穂耳と瓊瓊杵尊が天降り、その他は親族でも天津神でも遣わすとなっています。
      ・それでは神武天皇と戦った邇芸速日命が天照大神から十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国の河上の地に天降り、はどうでしょうか?
      ・もし、天孫降臨が天照大神の長男の直系だけであれは邇芸速日命は天菩比命か瓊瓊杵尊に限定されます。では瓊瓊杵尊の3代後の神武天皇が戦った相手とは誰なのでしょうか?
      ・ここまでくると、単なる言葉遊びでしかありません。「古事記」・「日本書紀」の編集者が都合の良く使い別けているだけの事と思われます。
      ・例え「古事記」・「日本書紀」の編集者の頭に特定の場所が想定されていたとしても、それはあくまで想像上の事で現実とはかなり異なると思います。
      ・饒速日命、長髄彦政権が樹立した事で当時の邪馬台国は新政権と狗奴国に挟まれる、途轍もなく危機的状況に追い込まれます。
      ・当然、邪馬台国は新政権を認める訳にはいきません。
      ・この危機を脱するには狗奴国と新たな同盟を組む以外方法がなかったのです。
      ・その為には狗奴国の王族の誰かを新たな王(邪馬台国の王という意味ではない。)として擁立し、新政権討伐軍を編成する必要があったのです。
      ・当時の邪馬台国にとってはある意味必要の処置でしたが、「古事記」・「日本書紀」を編集した権力者にとっては神武天皇が天照大神の直系でなければならなかったのではないでしょうか?
      ・だから、神武天皇が天照大神の直系と印象付ける神話の演出として天照大神の長男天忍穂耳の子供である瓊瓊杵尊が天孫降臨する必要があった訳です。
   ・次ぎに時間軸の調整が行われたと思われます。
   ・天照大神の同じ孫である瓊瓊杵尊と饒速日命は本来ならば同じ時間(年代)に存在したはずです。
   ・であれば天孫降臨した瓊瓊杵尊が東征して新政権を樹立するのが筋のはずです。
   ・ですが実際は神武天皇が東征して初めての天皇になり日本を建国したことになっています。
   ・又、正当な血統を主張する為には神武天皇の祖が瓊瓊杵尊でなければなりません
   ・同時に瓊瓊杵尊の子供を神武天皇にすると余りにも露骨過ぎ、不自然すぎて信憑性が疑われます。
   ・そこで瓊瓊杵尊を大国主の世代にを繰り上げて、架空の祖父、父である天津日高日子穂穂手見命、天津日高日子波限建鵜草葺不合命を間に挟んだと思われます。
   ・ただし瓊瓊杵尊の妻である木花之開耶姫は子供である天津日高日子穂穂手見命(神武天皇の祖父)を契りを結んだ一夜で妊娠します。これは瓊瓊杵尊と天津日高日子穂穂手見命に血の繋がりが無い事を暗示させています。
   ・その為、大国主が「国譲り」を行った直後に瓊瓊杵尊が「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気」に天孫降臨しなければならなかったのです。
   ・すると又、時間軸がずれてきます。「国譲り」とは大国主が提案した出雲、邪馬台国の連立政権であり邪馬台国からは天忍穂耳、天菩比命、天津彦根命の王を輩出しているからです。
   ・「古事記」、「日本書紀」を編纂した朝廷を正当化する為には出雲、邪馬台国の連立政権を認める訳にも出来ず、時間のずれ、神武天皇の神格化の問題もあります。
   ・そこで天忍穂耳、天菩比命、天津彦根命(天若日子)を「国譲り」の前に葦原中国に向わせたが大きな成果を挙げられなかったとした訳です。
○ 長髄彦と饒速日命の新政権を打倒する為に神武天皇が東征したのではないのか?
   ・国譲りの後であれば東征する必要がないはず。東征するのには理由がある、長髄彦が単なる族長ならわざわざ神武天皇が東征する必要がない。
○ このような関係だったから長髄彦は戦意が高く、饒速日命は戦意が低かったのではないのか?
  (饒速日命は単なる傀儡で野心を強く持っていないように感じる。饒速日命が神武天皇側に就くと大義名分を失い長髄彦軍は一気に瓦解する。)
○ 饒速日命は認められないものの天照大神の孫なので戦犯でも許されたのではないのか?
  (神武天皇側も饒速日命が単なる傀儡であることや天照大神の孫であることが解っていたのではないか?東征の出発前に大和に天津神が天下った事を匂わせている。)
○ 出雲系の豪族をまとめる為、饒速日命の子孫(物部氏)が重用されたのではないのか?
  (ある意味、大国主や出雲一族が築いたものを天皇家が搾取した形を避けたいと思っていたのでは。私論では饒速日命の母親は大国主の娘、妻は事代主神の娘:長髄彦の妹と出雲族の血脈を受継いでいると思われる。)
○ 出雲系の豪族をまとめる為、長髄彦と建御名方(後に諏訪大社の祭神として信仰の対象)だけが悪者にしたのではないか?
  (直接戦っていない大国主と事代主神、後に建御名方を神格化することで天皇家の批判をかわす狙いがあったのでは?長髄彦は徹底的に批判の的となり事代主神の後継としても扱われていない。)
○ 神武天皇を神格化する為、建御雷神があたかも東征には参加していないように書かれているのではないのか?
   ・建御雷神の功績を讃えつつも神武天皇が自ら東征を成功させる事が必要だったのでは。建御雷神の功績は「国譲り」の際に振り分けられたのでは。
   ・本来であれば畿内を長髄彦、出雲を建御名方神が守っていたと思われる。
   ・推論ですが神武天皇の本隊は長髄彦に敗退、別働隊の建御雷神が出雲での建御名方神に勝利し諏訪まで侵攻、建御名方神が降伏すると、尾張から伊勢に入り長髄彦の背後を突き神武本隊と挟撃したのでは。
   ・神武天皇本隊がわざわざ伊勢に廻り険しい峠を越えて背後を突くことは戦略的に考えにくい。
   ・神武天皇が熊野で苦戦していると建御雷神から送られたとされる布都御魂(霊剣)により勝利したとの記述があるが、実際は建御雷神率いる別働隊が熊野で勝利した事の比喩ではないのか。


   ・全くの空想・想像・感想でした(都合の良い事象は「古事記」、「日本書紀」を引用し悪い部分は編纂当時の権力者が改ざんしたことにすれば数多くの空想が作り出せます。)。ありがとうございました。

とりあえず続きます。