・益田市内では3世紀中頃から7世紀にかけて多くの古墳が築造されました。
古墳時代前期には四塚山1号墳をはじめとして大元古墳、スクモ塚古墳と当地方では大型の前方後円墳が連続して築造されたものの、中期になると金山古墳や木原古墳等円墳の形式となり、後期には小型の前方後円墳が目立つようになっています。
6世紀に入ると石見国が立国、石見国府に赴任した飛鳥時代の歌人として知られた柿本人麻呂は市内にあった鴨島で無くなったとも云われています。
地名は当地域には良田が多く「真砂田」だった事に由来するとも云われ「和名抄」では石見国美濃郡益田郷と記され歴史の長さが感じられます。
万寿3年に万寿地震が発生すると鴨島等の島々や海岸線が水没し、内陸部まで押し寄せた大津波によって大きな被害を受けたと伝えられています。
永久2年に石見国の国守として赴任した藤原国兼の後裔は、その後当地に土着し地名に因み「益田」姓を掲げ長く当地を支配しました。
室町時代になると益田氏は貿易等で財を成し、版図を広げる一方で文化の発展にも尽力しています。
特に15代当主益田兼堯は画聖や作庭家として知られた雪舟を招いた為、雪舟は当地で多くの作品を残しています。
又、益田氏の居城である七尾城の城下町だった事から行政、経済の忠臣としても発展し多くの人や荷物が行き交っています。
戦国時代に入ると益田氏は大内氏に従っていましたが、毛利氏が台頭すると毛利元就方に転じ、四国攻めや急襲征伐、朝鮮の役等、毛利氏に従軍しています。
慶長5年に発生した関ヶ原合戦で毛利家は西軍に与し、減封になった為、益田氏も配置替えを余儀なくされ当地を去っています。
江戸時代に入ると浜田藩に属し、七尾城の旧城下町は山陰街道の宿場町に指定されています。
慶応2年の第二次長州征伐では益田戦争の舞台となり大きな被害を出しています。
現在、古い町並みは失いつつありますが、宿場周辺には益田氏所縁の萬福寺や染羽天石勝神社、医光寺等の社寺や七尾城址、三宅御土居跡等の史跡が点在し、多くが日本遺産「中世日本の傑作 益田を味わう〜地方の時代に輝き再び〜」の構成文化財に選定されています。
山陰街道:宿場町・再生リスト
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