三隅宿

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三隅宿:略データ
・場 所・鳥取県浜田市三隅町三隅
・概 要・三隅の地名は和名抄に石見国那須郡三隅郷と記されている事から古代から成立していた事が窺えます。

伝説によると神話の時代に大穴持尊が三角成田を開発したのが始まりとされ当初は成田郷と呼ばれていましたが、その後、「三角」郷と呼ばれるようになり、これが転じて「三隅」になったと伝えられています。

大型の古墳ではありませんが、小野古墳は横穴式石室を有する円墳で、須恵器等が発見されており、当地にも豪族がいたと思われます。

当地に境内を構えている正法寺は天平9年に行基菩薩が開創したと伝わる真言宗の寺院で、本尊の木造薬師如来坐像は行基が彫刻したものと伝えられ、像高109cm、檜材、寄木造り、貴重な事から島根県指定文化財に指定されています。

大麻山に鎮座している大麻山神社は寛平元年に開創したと伝わる神社で、延喜式神名帳に式内社として記載され、当地の歴史の古さが窺えます。

鎌倉時代に入ると、石見国押領使に補任された益田兼高の次男である兼信が三隅郷の地頭職に就任し当地に赴任、本城となる三隅城を築城すると地名に因み「三隅」姓を掲げました。

元弘3年、当時の当主である三隅石見前司兼連は、船上山に立て籠もる後醍醐天皇に呼応し、幕府方に勝利すると、天皇を守護し京都の御所に送り届けています。

南北朝時代の動乱では、本家筋の益田家は北朝方に属したものの三隅家は南朝方に与し、石見国南朝方の中心的な存在として活躍しています。

14世紀中頃までは三隅氏の活躍により石見国では南朝有利に展開していましたが、正平8年に朝廷から足利尊氏追討の命を受けた足利直冬に従軍した三隅兼連が京都七条の戦いで敗北し討死したのを皮切りに長子の兼知も正平7年に山城国男山で討死した為衰微しています。

戦国時代に入ると三隅氏は益田家と相争い、天文年間には大内氏を滅ぼした陶晴賢の後ろ盾を得た益田藤兼により攻められ降伏しています。

さらに、元亀元年に毛利家の一族である吉川氏に攻められ、三隅城は落城、当時の城主三隅国定は討死し嫡流は滅亡しています。

江戸時代に入ると浜田藩に属し、山陰街道の宿場町が開宿しています。本陣は海老屋牛尾家が歴任し、宿場内で大きな役割を担ったと思われます。

明治時代には南朝方として活躍した三隅兼連が忠臣として評され兼連を祭神とする三隅神社が開創しています。

現在は宿場町の風情が失われつつありますが、歴史の一端が感じられます。

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