・宍道町の歴史は古く、6世紀後半に築造された宍道要害古墳は多くのが破却されているものの残された石室の規模からかなり大きな権力のあった豪族が早くから支配していたと思われます。
地名の由来となった女夫岩は、出雲国風土記の記されいる猪像とも云われ、大国主命が狩の際、犬に猪を追わせて通った道である事から「宍道」の名が起こったとも云われています。
女夫岩は高さ5m程の巨石が2つ寄り添うように配置され、周辺から古墳時代の須恵器や土師器、近世の徳利等が発見されている事から古代の自然崇拝の祭祀場だったと思われます。
石宮神社の境内にも猪像と伝わる巨石があり、歴史が感じられます。
中世は出雲元治佐々木氏を祖とする宍道氏が支配します。
戦国時代に入ると宍道氏は、尼子氏、毛利氏、大内氏と大大名に囲われ、当初は尼子氏の重臣でしたが、尼子氏が衰退すると大内氏に属し、大内氏が衰退すると毛利氏に仕えています。
宍道政慶は毛利家一族で山陰方面の責任者である吉川元春に付けられ、出雲国の国人領主達を統括する立場でしたが、天正12年に長門国阿武郡大井に移封を命じられ出雲国を去っています。
江戸時代に入ると松江藩領となり、当地は山陰街道の宿場町に指定されています。
宍道宿は宍道湖を利用したや対岸貿易や山陰街道と雲南三郡及び奥出雲を結ぶ、大原街道、出雲備後道が分岐する交通の要衝として多くの物資が集められ、さらに松江藩主が出雲大社の参拝や領内視察で利用する本陣が3軒もうけられる等重要視された為、大きく発展しました。
宿場の長さは200間、街道の道幅は4間、家屋は元禄12年で161軒、江戸時代後期の文化10年で249軒と増加しています。
本陣は小豆沢家、木幡家、葉山家の三家が務め、現在でも木幡家の建物が現存し国指定重要文化財に指定されています。
明治時代も引き続き交通の要衝と宍道湖航路の汽船の寄港地として発展しましたが、明治42年に山陰線が開通すると次第に重要性が失われ、衰微しました。
木幡家本陣遺骸は江戸時代まで遡るような古建築は少ないようですが、屋敷の間口が狭く切妻平入の民家が軒を連ね宿場町らしい町並みを見る事が出来ます。
山陰街道:宿場町・再生リスト
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