・津和野の地の歴史は古く喜時雨遺跡からは後期旧石器時代のものと思われます石器が発見されています。
縄文時代から弥生時代の遺跡も多く、古墳は梶原古墳と社地脇古墳の2基しか確認されていませんが、遺物等から当地が山口地方と山陰地方の文化が交差する地域だった事が窺えます。
律令制下では能濃郷と呼ばれ、石見国美濃郡に属していましたが、承和10年に吉賀郡と共に美濃郡から独立し鹿足郡を構成しました。
鎌倉時代に入ると、左兵衛尉が地頭代として名前が挙がるものの、初期から中期にかけての支配体制は不詳な部分が多いとされます。
鎌倉時代後期に元寇が発生すると、石見国の日本海側の沿岸防衛の為、能登を本貫とする吉見頼行が当地に派遣され弘安5年以降に木曽に館を構えています。
頼行は永仁3年に津和野霊亀山に中荒城を築城、さらに城郭を拡張し約30年後の2代吉見頼直の代に竣工し一本松城(後の津和野城)と呼ばれました。
その後、吉見氏は国人領主として長く当地を支配し、戦国時代には11代当主吉見正頼が大内義隆の姉である大宮姫を正室として迎え、大内家と縁戚関係を結ぶ事で支配の確立を図っています。
義隆は家臣の陶晴賢の下克上により自刃に追い込まれると大内氏は没落、多くの家臣が晴賢に転じる中、正頼は最後まで抵抗、天文23年には津和野城に3ヵ月以上も籠城し陶勢を退けています。
その後は毛利家に従い、陶家討伐に従軍し功績を挙げています。
慶長5年に発生した関ヶ原合戦で毛利家は西軍に与した為、敗北後は周防国、長門国、2国に減封され、それに従った吉見氏も当地を離れています。
代わって東軍に与した坂崎直盛が当地に3万石で入封し津和野藩を立藩、城下町も藩都として整備拡張され、山陰街道の開削に伴い、城下町に引き込む等領内の整備も随時行われています。
元和2年、直盛は大坂の陣で豊臣秀吉の正室で2代小gン徳川秀忠の娘、千姫を大坂城から救出、戦以前に千姫を助けた者に千姫を与えるとの約束から婚約を追ったものの拒否された事から、千姫の誘拐計画を画策したとされます。
結局、計画は露呈した為、直盛は自刃に追い込まれ坂崎家は断絶しています。
代わって元和3年に亀井政矩が鹿野藩から4万3千石で入封すると、津和野城の居館、藩庁を麓に遷し、それに伴い外堀と城下町に変更が計画され、現在に近い町割りが行われ、城に近い手前が武家屋敷や家老屋敷、藩校が並び、その外側に商家町が配され、山陰街道と津和野街道の起点となっています。
亀井家は筆頭家老である多胡家と図り領内の発展に尽力し実石15万石とも云われる程に財政を拡充しています。
人材育成にも力を入れ天明6年に藩校である養老館を開設し、幕末から明治維新にかけて数多くの偉人を輩出する土壌を作り上げています。
現在も街道沿いを中心に両校で伝統的な町屋建築や武家屋敷が数多く残され貴重な事から種別「武家町・商家町」、東西約160m、南北約700m、約11.1haが津和野町津和野伝統的建造物群保存地区に選定されています。
山陰街道:宿場町・再生リスト
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