今市宿

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今市宿:略データ
・場 所・鳥取県出雲市今市
・概 要・今市の発生起源は判りませんが、延享から寛延年間に松江藩の命により編纂された出雲国の地誌である「出雲鍬」や松江藩3代藩主松平綱近から5代藩主松平宣維にかけて領内の各郡一町村の歴史や名所、社寺等の由緒や伝承を纏めた「雲陽誌」によると、宝徳3年に毎月7日・10日を市日として市場が開かれ、町並みは東西一町余、東端は塚山の東、西端は慈眼寺の小路付近だったとされます。

地名は出雲国の守護書が置かれた塩治町弓原や中世の有力豪族だった古志氏の居城、浄土寺山城の城下町である古志町の市場よりも当地の市場が新しく今行われている市場だった事が由来になっているとも云われています。

その後、市日は5日と16日に変更となり、永禄12年に毛利家が出雲国を侵攻し当地が兵火により大きな被害を受け、新たに町割りされる際に、防衛面を考慮し桝形が設けられたとされます。

江戸時代に入ると松江藩に属し、山陰街道が開削されると宿場町に指定されています。

その後も市場町、物資の集積場として発展し、元禄年間には町並みが5町に拡大し、特にに本町から西の中町にかけて発展しています。

貞享元年から貞享4年にかけては松江藩から開発棟梁に抜擢された大梶七兵衛によって高瀬川が開削されています。

大梶七兵衛は出雲国神門郡古志村の豪農の子供として生まれ、非常に高い農業土木技術を習得し、出雲平野の開拓や植林に尽力しています。

七兵衛は日本海から吹き付ける海水を含んだ強風や噴き上げる砂浜を防ぐ為に荒木浜に防風林を植樹し斐伊川から約10qの灌漑用水(高瀬川)を開削し当地域が一大穀倉地となっています。

一方、高瀬川を利用した舟運により物資輸送が活発になり、今市が経済的拠点として大いに発展しました。

明治時代になると簸川郡の郡役所が設けられ、「郡村誌」によると田圃97町余、宅地16町余、山林24町余、戸数664戸、人数2379人、馬20疋、人力車5台、荷車2台、農家114軒、商家160軒、大工18軒、鍛冶屋7軒、左官3軒、木挽6軒、畳刺6軒、理髪6軒、石工5軒だったと記されています。

現在も高瀬川沿いには古民家が多く良好な町並みを見る事が出来ます。

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