・浜田の地は地政学的に石見国の中心付近に位置し、属していた那珂郡の「なか」は石見国中央の「中」に由来しているとも云われています。
5世紀後半には周布古墳、6世紀前半にはめんぐろ古墳、7世紀には片山古墳等が築かれ、有力豪族が存在していた事が窺えます。
8世紀に石見国府が成立すると国府が設置され、石見国分寺や石見国分尼寺が開かれています。
中世に入ると武蔵七党の丹党に属し武蔵国大里郡肥塚を本貫とした肥塚家が支配し、三隅城の城主である三隅家が石見国の有力な国人領主として台頭すると、肥塚氏は三隅氏に従っています。
一方、周布郷は益田惣領家6代当主益田兼時の弟である兼定が地頭として配され、地名に因み「周布」姓を掲げ、後裔は長く当地を支配しています。
弘安の役後、モンゴル軍の再度に侵攻に備える為、幕府の命により石見海岸に18ヵ所の砦が築造されています。
南北朝の動乱では三隅氏や周布氏は南朝方に加担し、北朝方に益田氏と激しく対立してます。
李朝世宗7年に暴風により朝鮮水軍の乗員張乙夫等10人が長浜浦に打ち上げられ、当時の領主である周布兼仲が保護し、無事に朝鮮に帰国しています。
これが縁となり石見国の国人領主達が朝鮮との交易が始まり、李氏朝鮮領議政申叙舟が日本国と琉球国について記述した「海東諸国紀」に付された日本本国之図に長浜浦が記されています。
室町時代中期には山名氏が石見国守護職に就任したものの、応仁の乱で山名氏が衰退すると大内氏が守護職となります。
戦国時代には大内氏や尼子氏、毛利氏が相争い、戦国時代末期には毛利氏領になりますが、慶長5年に発生した関ヶ原合戦で毛利氏は西軍に与した為、大きく石高を減らし当地の支配権が失われています。
元和6年に吉田重治が5万4百石で入封し浜田藩が立藩すると、その後は松平(松井)家、本多家、松平(松井)家、松平(越智)家が藩主を歴任し明治維新を迎えています。
山陰街道が開削されると、浜田城下に街道筋が引き込まれ、西側の青口番所から桧物屋町、広小路、蛭子町、新町、紺屋町を経て東側の三重口番所に至る範囲が宿場町に指定されています。
現在は建て替えが進み、古い建物は限定的ですが、街道沿いには当時の屋敷割りを踏襲したと思われる間口が狭く奥行が長い敷地が連続した町並みが見られます。
山陰街道:宿場町・再生リスト
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