安来宿

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安来宿:略データ
・場 所・鳥取県安来市安来町
・概 要・安来の地は古代から開かれた地域で、荒島にある「古代出雲王陵の丘」には大型の四隅突出型墳丘墓を含む4基の古墳があり、有力な豪族が当地を拠点にしていた事が窺えます。

和名抄で記載されている出雲国能義郡安来郷に当たり、出雲国風土記で見られる「比売崎」、「砥神島」、「加茂島」は安来郷にあったとされます。

出雲国風土記には比売崎で語臣猪麻呂の娘が遊んでいた際、鰐に片足を食いちぎられ死んだ事から、猪麻呂は天神地祇等の神々の力を借り鰐を退治しとの神話が記されています。

能義神社には出雲国風土記に記載された神々の中で「大神」と表記された四大大神の一柱である「能義大神」が祀られている格式の高い神社で、当地には有力な氏族がいた事が窺えます。

又、安来湊は国際港でもあり、半島や大陸とも交流していた痕跡があり、神在月に出雲に集まる神々は安来湊に寄って鉄を得てから出雲に向かうとの伝説が残され、万葉集で記されている「於保の浦」は安来湊の事とも云われています。

平安時代後期は平家の関係者は支配していたようですが、平家が没落すると、文治元年に源頼朝が下鴨神社に神領として寄進し「安来庄」が成立しています。

地頭は兵衛尉資明が担ったと思われますが承久の乱の際に資明は後鳥羽上皇方に与した為、敗北後は失脚したようで、貞応元年には源頼経が逆に功績を挙げた松田九郎有忠に安来庄の地頭職を与え、得分以下は兵衛尉資明の例に従うようにと命じています。

その後も松田家が安来庄の地頭職を歴任し、国人領主として長く当地を支配しています。

応仁の乱により、出雲国守護職京極氏が衰退すると、松田氏や三沢氏等の当地の国人領主達は反乱を試みましたが、守護代だった尼子清貞が粛清しています。

これにより松田氏は没落し、清貞は能義郡奉行職や幕府御料所美保関代官職を与えられています。

戦国時代に尼子氏の勢力が拡大すると安来湊が本城である月山富田城の外港として機能した事から、安来湊は尼子氏の物資輸送や、水軍の拠点となっています。

その後、毛利家の台頭により尼子氏は没落、永禄9年には月山富田城が落城し当地は毛利家の支配下に入りました。

慶長5年に発生した関ヶ原の戦いで毛利氏は西軍に与した事から減封となり、代わって堀尾氏が入封、以後、松江藩領に組み込まれています。

当地は山陰街道の宿場町と同時に北前船の寄港地だった安来湊の港町だった事から松江藩の能義郡周辺で産出される特産品や産物、年貢米等が集積される経済的拠点として重要視されました。

又、安来湊に流れ込む伯太川の上流には松江藩の支藩である母里藩、飯梨川の上流には同じく広瀬藩が控えていた事から両藩関係の物流拠点にもあり大いに栄えています。

さらに、隠岐の島への渡航地や内陸部の一大産業となったタタラ製鉄の積み出し港でもあった為、安来節で「安来千軒」と詠われる程繁栄しました。

安来宿は出雲国と伯耆国の国境近くに位置し、江戸時代は松江藩と鳥取藩の藩境にもなった為、宿場内には制札場の他、番所や藩主が宿泊や休息で利用する御茶屋(本陣)が設けられています。

現在は建物の建て替えが進んでいますが並河家住宅をはじめ、伝統的な大型町屋建築も点在し、宿場町らしい町並みが一部残され当時の繁栄が窺えます。

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