・出雲郷が何時頃成立したのかは判りませんが、天福元年10月に発布された紀義季の譲状に平浜八幡宮の惣検校分として「弐反出雲郷、キク宇田」と記されたのが文献的初見とされます。
出雲郷は出雲国国衙の中核の一端を担い、建長3年8月に発布された出雲国司庁宣によると、出雲郷内の惣社8月朔幣料一丁が出雲国造の義孝に委ねられています。
又、惣社の造営料田と灯油田も出雲郷内にあり重きを成しています。
貞和2年11月には出雲国目代幸松丸と田所により出雲里郷弁房跡23丁300歩が平浜八幡宮の遷宮の費用として寄進されています。
当地に鎮座している阿太加夜神社が何時頃開創されたのかは判りませんが、天平5年に編纂された「出雲国風土記」に記されている「阿太加夜社」に比定され、地名が出雲国造直轄地に因み「出雲郷」と表記しながら「アガタエ」と読む原因になったとの説があります。
阿太加夜神社の10年に一度開催されている特殊神事である「ホーランエンヤ」は松江城内に鎮座している城山稲荷神社の御霊を当社に遷座し、一週間奉斎した後にお戻りになる特異なもので、日本三大船神事に数えられています。
江戸時代に入ると山陰街道と出雲街道の宿駅に指定され宿場町として改めて町割りされました。
出雲街道は松江藩主の参勤交代の経路だった事から、出雲郷宿には御茶屋(本陣)が設けられ、早朝に松江城を出立した藩主は出雲郷宿の御茶屋で昼食を採って次の宿場町に向かっています。
出雲郷宿には命令・伝達の札を立てる制札所、合戦時に防衛施設として利用される松並木が設けられています。
現在は古民家の建て替えが進み、宿場町らしい町並みは失われつつあります。
山陰街道:宿場町・再生リスト
出雲街道:宿場町・再生リスト
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