・温泉津温泉は7世紀に狐が当地に湧き出る源泉で傷を癒している姿を旅僧が発見したのが始まりとされます。
平安時代中期に編纂された「和名聚抄」には石見国邇摩郡温泉郷と記されており、古くから温泉が湧き出る土地柄だった事が窺えます。
鎌倉時代の貞応2年の「石見国惣田数注文案」には大家荘の属領として「ゆのかう」が記されており、地名で「六斎」が見られる事から中世には市場として地域経済の中心的な役割を果たしていた可能性があります。
室町時代に入り石見銀山が開発されると温泉津湊が産出される鉱物の積み出し港として重要視されるようになりました。
中世は益田氏が支配したものの、戦国時代には尼子氏、大内氏、毛利氏が石見銀山の所有を巡り、激しい攻防戦が繰り広げられています。
当地が毛利領になると弘治4年には毛利元就が吉川弘安に対して温泉津を利用する船に課された税の内50貫を&する書状を発給しています。
さらに、温泉津港を敵軍から守る為に鵜丸城や櫛島城が築かれています。
又、地名で「唐人ヶ浦」が見られ、嘉靖41年に明国の地理学者鄭若曽が編纂した「籌海図編」では石見国の温泉津と思われる記載がある事から、大陸との繋がりが窺えます。
交通の要衝だった事から温泉津に境内を構えている恵b寺には大永6年に大内義興が尼子氏領侵攻の際に本陣として利用され、天正15年には当寺の住職だった日慈と親交のあった細川幽斎が九州出兵で豊臣秀吉の陣に向かう途中、恵b寺を訪れ百韻連歌を催しています。
慶長5年に発生した関ヶ原合戦で毛利家は西軍に与した事から大きく石高を減らされ、温泉地は幕府の直轄領となっています。
慶長10年には石見銀山奉行の大久保長安が屋敷税を永代免除する触れを発出し、温泉津の保護に努めています。
ただし、石見銀山の産出領の減産や、瀬戸内海側の尾道へ結ぶ街道の利用が増えた事により次第に衰微しました。
しかし、山陰街道の宿場町や周辺の年貢米の集積地、その積み出し港として引き続き重要視されました。
一方、温泉地温泉は効能が広く全国的に知られるようになり「一郷、温泉を頼みて生活を為す、斯く民、天公の恵みを知らず。」と云われ、多くの湯治客が利用しています。
現在でも良好な町並みが残され国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の構成要素に選択されています。
山陰街道:宿場町・再生リスト
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