浜田城(浜田市)概要: 浜田城は元和6年(1620)から元和9年にかけて浜田藩 (5万4百石)初代藩主となった古田重治によって築かれました。2代古田重恒は正保3年(1646)にお家騒動(古田騒動)を起こし、慶安元年(1648)に死去(騒動を悔い自刃したとも。)、跡継ぎがなく無嗣断絶しています。慶安2年(1649)、松平康映が山崎藩から5万石で入封すると5代にわたり世襲し、宝暦9年(1759)5代藩主松平康福が古河藩(茨城県古河市)に移封になると代わって本多忠敞が古河藩から5万石で入封します。
明和6年(1769)、3代本多忠粛が岡崎藩(愛知県岡崎市)に移封になると再度松平康福が5万5千4百石で入封しています。天保7年(1836)、会津屋八右衛門が浜田藩の財政を助ける為、中国や朝鮮と海外貿易したことが間宮林蔵の調査により発覚、その罪により3代藩主松平康任は隠居となり4代藩主松平康爵は棚倉藩(福島県棚倉町)へ転封になっています。
同年、松平斉厚が館林藩(群馬県館林市)から6万1千石で入封、慶応2年(1866)の4代松平武聡の代に第二次長州征伐が行われると長州藩が領内に侵攻し武聡は敗走しています。この際、浜田城と城下町は浜田藩士によって焼き払われ、飛び地である作州鶴田まで退き、浜田藩領は事実上長州藩の支配下に置かれます。
浜田城は標高68mの亀山山頂付近に築かれた梯郭式平山城で3方を浜田川と日本海で囲われ海岸から見ると海に突き出ているように見えます。本丸北西隅には三重の天守閣が設けられ一ノ門、二ノ門は櫓門、煙硝蔵などが設置されました。現在は建物の遺構はありませんが石垣や郭の形状などがよく残り貴重な事から昭和37年(1962)に島根県指定史跡に指定されています。
浜田城:上空画像
【 参考:サイト 】
・ フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-浜田市教育委員会(浜田県庁の門)
・ 現地案内板-浜田市教育委員会(御本丸道と焔硝蔵)
・ 現地案内板-浜田市教育委員会(中ノ門と裏門)
・ 現地案内板-浜田市教育委員会(海と浜田城)
・ 現地案内板-島根県教育委員会・浜田市教育委員会
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