浜田市(歴史)概要: 浜田市は古くから開け5世紀後半には周布古墳(全長69m、二段構成の前方後円墳、葺石)が築かれ、周囲には日脚窯跡群やめんぐろ古墳などが点在し当時から有力豪族が存在し高い文化を持っていたと思われます。7世紀に入ると片山古墳(方12m、高さ5m、方墳)の築造や下府廃寺などが建立され、同年代には石見国が建国、浜田市には石見国府跡と思われる伊甘神社や国分寺跡、国分尼寺跡などが点在し石見国の中心地だったと推定されています。鎌倉時代に入ると福屋氏、周布氏、三隅氏、永安氏などの地頭が支配し次第に国人領主となり長きに渡り浜田市周辺を割拠しました。南北朝時代には南朝側の三隅氏と北朝側の同族である周布氏、本家筋である益田氏、石見守護上野頼兼が対立し度々戦になっています。室町時代中期になると山名氏が石見守護となりますが応仁の乱で山名氏が衰退すると大内氏が守護となります。戦国時代に入り主家である大内氏から主権を奪った陶晴賢は益田藤兼と共に現在の浜田市領域に侵攻し三隅城などが落城しています。その後、一時尼子領になりますが戦国末期には毛利氏領となり、関が原の戦いで毛利氏が西軍に付いた事で大きく領土を削減されます。
元和6年(1620)古田重治が5万4百石で浜田に入封し浜田藩を立藩し、浜田城の築城や城下町の整備など現在の浜田市の基礎を築きますが2代古田重恒は正保3年(1646)にお家騒動(古田騒動)を起こし、慶安元年(1648)に死去(騒動を悔い自刃したとも。)、跡継ぎがなく無嗣断絶しています。慶安2年(1649)、松平康映が山崎藩から5万石で入封すると5代にわたり世襲し、宝暦9年(1759)5代藩主松平康福が古河藩(茨城県古河市)に移封になると代わって本多忠敞が古河藩から5万石で入封します。明和6年(1769)、3代本多忠粛が岡崎藩(愛知県岡崎市)に移封になると再度松平康福が5万5千4百石で入封しています。
天保7年(1836)、会津屋八右衛門が浜田藩の財政を助ける為、中国や朝鮮と海外貿易したことが間宮林蔵の調査により発覚、その罪により3代藩主松平康任は隠居となり4代藩主松平康爵は棚倉藩(福島県棚倉町)へ転封になっています。同年、松平斉厚が館林藩(群馬県館林市)から6万1千石で入封、慶応2年(1866)の4代松平武聡の代に第二次長州征伐が行われると長州藩が領内に侵攻し武聡は敗走しています。この際、浜田城と城下町は浜田藩士によって焼き払われ、飛び地である作州鶴田まで退き、浜田藩領は事実上長州藩の支配下に置かれ明治維新を迎えます。
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