松江市(歴史)概要: 松江市は古代出雲国の中心だった地域で大草地区では出雲国庁が設置され、その周辺では国分寺や一之宮熊野大社、総社六所神社(佐久佐神社)などが設け、数多くの古墳が点在しています。中世に入ると中心部は月山富田城に、祭祀は出雲大社(杵築大社)に移りますが、江戸時代に入ると月山富田城より、交通の要衝で行政が行き届く平地が好まれました。
2藩主堀江忠氏は慶長8年(1603)から松江城の築城を開始し、慶長16年(1611)3代忠晴の代に完成し藩庁を松江に移しました。寛永10年(1633)、忠晴が死去すると跡継ぎがなく堀尾家が断絶となり、代わって京極忠高が小浜藩(福井県小浜市)から24万石で入封し、石見銀山などの統治権も得て、松江城の3の丸などを増築しています。
寛永14年(1637)忠高が死去すると末期養子として高和を立てましたが認められず、寛永15年(1638)に松本藩(長野県松本市)から松平直政が18万6石で入封します。江戸時代中期になると松江藩の財政は逼迫しますが7代藩主松平治郷が藩政改革を断行し、大規模な新田開発や商品価値の高い特産品の開発、倹約、増税などを行った結果、借財を完済し蓄財出来るほど回復しました。文化面も大きな影響を与え、特に茶道や茶器、庭園などが発展しました。幕末には親藩大名だったこともあり長州征伐なども出兵しますが、戊辰戦争では新政府軍に組し各地を転戦しています。又、隠岐では騒動が起こり松江藩士が追放され一時自治政府が開かれる事態となりました。
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