三宅御土居(益田市)概要: 三宅御土居は応永年間(1368〜1375年)、益田11代兼見によって築かれたのが始まりとされます。山城で詰城である七尾城に対して、平時の居館として設けられたもので長く益田家の中心的な拠点となりました。
規模は東西が約100m、南北が約50mで東側に高さ5m、長さ90m、西側に高さ4.5m、長さ50mの土塁がありその外側に水掘が廻り、内部には邑政堂や鍛冶場、米倉などの公的施設や御殿や庭園など私的空間がありました。戦国時代末期に毛利氏の侵攻により一時七尾城に居館を移しましたが、和睦により再び三宅御土居を大改修し本拠としています。
関ヶ原の戦いの際、20代益田元祥は毛利家の主要家臣として伊勢安濃津城を攻落させるなど功を上げますが、毛利氏が大幅な領土を削減させられると本領もそれに含まれていた為、長門国須佐に移っています。
その後、三宅御土居は廃城となり跡地には益田氏の旧家臣が泉光寺を開きその境内となりました。三宅御土居は中世の居館跡として規模も大きく貴重なことから平成16年(2004)に国指定史跡に指定されています。
益田氏城館跡 (三宅御土居跡):上空画像
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