益田市(歴史)概要: 益田市では5世紀の初期には須久茂塚古墳(全長100m余りの接合墳?)、6世紀初期にも小丸山古墳(全長約52mの前方後円墳)が築かれるなど当時から大きな勢力を持った豪族が支配していたと思われす。6世紀に入ると石見国に属し、石見国府に赴任し飛鳥時代の歌人、柿本人麻呂は、現在の益田市沖合いにあった鴨島で亡くなったと伝えられています。万寿3年(1026)に所謂万寿地震が起こり鴨島などの小島や海岸線は水没し、大津波によって神社仏閣、家屋など大きな被害を出したとされ、近年の調査で裏づけされています。
永久2年(1114)に石見国の国守となった藤原国兼(御神本国兼)は、その後石見に土着し、後裔が益田氏を名乗り国人領主化します。益田氏は益田を本拠にし、三隅氏・周布氏・末元氏・丸茂氏・多根氏・福屋氏等一族が石見国一帯に分散支配しますが、時代が下がると一族関係が薄れ、南北朝の騒乱以降は敵対し度々戦が行われました。
戦国時代に入ると益田氏は大内氏に属し、重臣として地位を確立、永正5年(1508)には大内氏と共に京都に上洛しています。大内氏が衰退すると毛利氏に属し、慶長5年(1600)の関が原の戦いで毛利氏が西軍に付き大きく領土を失った為、長門須佐に移っています。江戸時代に入ると益田市は浜田藩と津和野藩に属し、慶応2年(1866)の第2次長州征伐では益田戦争の舞台となり大きな被害を出しています。
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