大森銀山(石見銀山街道・鉱山町)・町並み

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写  真 備  考
大森銀山(石見銀山街道・宿場町・鉱山町)
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【大田市大森銀山】大森町は江戸時代初頭に石見銀山奉行に就任した大久保長安によって整備されたのが始まりとされ、2代奉行である竹村丹後守によって奉行所(大森代官所)が現在地に移されると発展の基礎が築かれました。石見銀山の発見伝説には諸説ありますが、明確なものとしては大永6年(1526)に博多出身の商人神谷寿禎が出雲の鷺銅山へ銅を仕入れに赴く途中で偶然海上から光るものを発見、天文2年(1533)に海外の先進的な銀の精錬技術(灰吹法)を取り入れる事で石見銀山の採掘量が飛躍的に上がったとされます。戦国時代になると石見銀山は世界有数の銀山として発展し、その利権を巡り、周辺の大名だった大内氏、小笠原氏(石見小笠原氏)、尼子氏、毛利氏が争奪戦が繰り広げられ、周辺には軍事的な城郭(山城:山吹城跡・矢筈城跡・矢滝城跡・石見城跡)幾つも築かれています。天正12年(1584)に毛利家が豊臣秀吉に臣従すると、石見銀山は豊臣家と毛利家の共同運営され、豊臣方からは近実若狭守、毛利方からは三井善兵衛が派遣され、その後の秀吉の軍事行動(小田原の役・朝鮮出兵など)に大きく貢献しています。

鉱山町には工夫だけでなく、家族や役人、商人など様々な関係者が住んでいたと思われ、最盛期には人口20万人、家屋2万6千余軒、寺院100箇寺と記載された古文書がある事から全国的にも見ても有数な都市だった推定されています。江戸時代に入ると幕府の直轄領となり、当初は石見銀山周辺にあった町も2代奉行竹村丹後守が奉行所を大森町に移した事で、幕府から派遣された役人の役宅(武家屋敷)や御蔵などが随時大森に移され、結果的にも商家も付随した為、大森が行政と経済の中心に推移していきました。江戸時代中期以降急速に石見銀山の産出量が減少し、それに伴い大森町も衰微し江戸時代後期には人口1千5百人前後、家屋も5百棟前後となっています。

【町並みの特徴】−現在の大森町の町並みは寛政12年(1800)の大火後に再建されたもので、防火や類焼を防ぐ為、瓦葺、塗屋造りの建物が多く建てられています。町並みの特徴の1つが一般的な城下町で見られるような武家地や商家町、寺町の区別が明確では無く武家屋敷(役宅)と町屋建築は石見銀山街道沿いに混在し、寺院や神社、陣屋は山沿いに配されています。

石見銀山街道周辺には熊谷家住宅(大森地区最大の商家:国指定重要文化財)や城上神社拝殿(大森地区の鎮守:島根県指定文化財)、勝源寺楼門(歴代奉行の菩提寺:大田市指定文化財)、武家屋敷旧河島家(石見銀山役宅:大田市指定史跡)、五百羅漢(国指定史跡)、石見銀山資料館(大森代官所跡:国指定史跡)などが点在し、優良な町並みが残されています。大森銀山町は昭和63年(1988)には約32.8(約162.7)ヘクタール、伝統的建築物257件、工作物40件、環境物件10件が名称「大田市大森銀山伝統的建造物群保存地区」、種別「鉱山町」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。又、平成19年(2007)には「石見銀山遺跡とその文化的景観」としてユネスコの世界遺産にも登録されています。

【石見銀山街道】−石見銀山で採掘された銀は当初、日本海側の温泉津沖泊、鞆ヶ浦港で積み出されていましたが、慶長年間(1596〜1614)以降は石見銀山街道により陸路で瀬戸内海側の港町尾道まで運ばれ、そこからさらに大坂から京都まで運ばれました。地理的には日本海を利用して海路で運んだ方が合理的ですが当時の操船技術では冬場の日本海を安定、安全で大量の鉱物を長距離運ぶのには危険が伴う事が多かった事から、それらの懸念を払拭出切る陸路が開削され、要所には代官所など幕府の出先機関が設置されました。尾道からは比較的気候が穏やかで安全に航海出きる瀬戸内海を海路を使い大消費地まで運ばれていきました。

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大森銀山(石見銀山街道・宿場町・鉱山町)
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