尼子晴久の墓(安来市)概要: 尼子晴久の墓(宝篋印塔)は島根県安来市広瀬町富田、月山富田城の麓に建立されています。 案内板によると「 晴久は経久の孫で、父政久が出雲阿用で戦死したあと、経久より家督を相続した猛将であった。永禄5年(1562)城内において49歳で急死し、そばに並んでいる墓は殉死した人々の墓石と思われる。(永禄3年47歳説もある。雲陽軍実記)」とあります。尼子晴久が急死した際、対立した周辺大名や不満を持っていた領内の国人領主などが多数いて、跡を継いだ尼子義久も22歳という若さだった事もあり、菩提寺での盛大な葬儀は行われず、城内で密葬に近い状態で埋葬されたようです。
案内板では「そばに並んでいる墓は殉死した人々の墓石と思われる。」とありますが、戦国時代では主君が病死など自然死の場合に殉死する習慣が無かった事から、案内板が正しければ晴久は病死では無く、討死や暗殺だった可能性があります。逆に晴久が病死だった場合は殉死した家臣の墓石ではない事になります(永禄の戦の戦死者の寄せ墓という説もあります)。晴久の実績からすれば菩提寺にて盛大な葬儀が行われるのが当然ですが、月山富田城の一角に密かに埋葬されてる事実から察すると普通の死に方ではなかったような印象を受けます。
尼子晴久の菩提寺は晴久が開基、尼子氏の菩提寺である洞光寺2世天麟正壷大和尚が開山した宗見寺(島根県安来市飯生町)で、境内には晴久の供養塔が建立されており、戒名は「月光院殿愚溪宗見大居士」となっています。その他の戒名としては「光徳院殿鳳頷英逸大居士」がありますが、尼子氏の祈願所である光徳寺(鳥取県東伯郡琴浦町公文)と関係があるのかもしれません(戒名はその他に「天威心勢大居士」)。
尼子晴久の墓:上空画像
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