尼子興久の墓(安来市)概要: 尼子興久の墓は月山富田城の麓に建立されています。案内板によると「 興久は経久の3男である。原手郡7百貫の領地がもらわれなかった為に、天文元年8月父にそむき、敗れて妻の父備後畠山城主山内大和守直通にたよったが、天文3年自殺した。年38歳であった。」とあります。
尼子興久は室町時代の明応6年(1497)に尼子経久の三男として生まれ、幼名として彦四郎を名乗っていましたが、永正8年(1511)に大内義興に従い上洛した事が縁となり永正9年(1512)には「興」の字が授けられ「興久」を名乗るようになります。
その後、対立関係だった塩冶家が内乱により弱体化したと見られ尼子氏の介入により興久が塩冶家の名跡を継いでいます。正確な時期は不詳ですが永正15年(1518)に発布された日御碕神社の寄進状に「塩冶彦四郎興久」の名が見られる事から少なくともこれ以前と推察されます。
興久は本家である尼子家に従い多くの戦に従軍した一方で、塩冶家独自の人脈を広げる事で反尼子家勢力の中心的な存在となり、杵築大社(現在の出雲大社)や鰐淵寺、出雲成相寺といった社寺からも頼られるようになります。
興久の正確な反乱時期は不詳ですが享録3年(1530)には既に対立関係が激化していたようで、出雲成相寺に対し尼子家本家に無断で地位の保証を行っています。反乱は出雲国を二分する大規模なもので当初は興久方が有利な戦局だったようですが、経久が大内義隆に援軍を求め、義隆もこれに応じた事で形成が逆転し興久は戦線を維持できなくなり備後に逃れます。
その後も反乱が続けたものの、天文2年(1533)に経久方は備後に大規模な兵を送り込むなど執拗に攻め立てた為、天文3年(1534)には自害に追い込まれています。
尼子興久の墓:上空画像
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