安来市: 親子観音(堀尾勘解由の墓)

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概要・歴史・観光・見所
親子観音(堀尾勘解由の墓)概要: 親子観音は月山富田城の一角に位置する慶長13年(1608)に製作された宝篋印塔で石廟の中に安置されています。伝承では松江藩の御家騒動で処刑された堀尾河内守と子共である堀尾掃部の墓碑と云われていましたが、基礎に刻まれた戒名と「堀尾古記」から堀尾勘解由の墓と推定されています。

個人的な見解ですが堀尾掃部は家系図上は堀尾吉晴の弟で三刀屋城に配された堀尾掃部氏光(宗光)、又はその子供である堀尾掃部氏朝が見られます。堀尾家の家臣である堀尾但馬が記した「堀尾古記」 によると慶長14年(1609)3月20日に堀尾掃部が死去とある事からこの年に氏光(宗光)が死去したものと思われます(慶長13年説有)。氏朝は寛永3年(1626)、普光山峯寺に三刀屋の内梅木村10石の寄進状を発布している事から慶長13年(1608)時点では健在で、そもそも掃部は堀尾河内守の子供では無かったと思われます。

一方、「堀尾古記」に 「慶長十三年戊申 一堀尾勘解由果ル 極月五日京ニテ」との記載や、堀尾家の京都での菩提寺である妙心寺春光院の過去帳に「桂岩院殿祥雲世端大居士 慶長十三年十二月五日」との記載、高野山での堀家の墓域に建立されている10号石塔に「桂岩院殿祥雲世〇大〇〇 慶長十三年十二月〇日」と刻まれている事から、親子観音は堀尾勘解由の墓、又は供養塔だった事が推察されます。

又、勘解由が堀尾河内守の子供としている説が多いようですがかなり疑問があります。一般的な説だと堀尾河内守親子は本家乗っ取りを画策、所謂「堀尾騒動」の首謀者で、流罪の上 切腹させれたとの事ですが、高野山での堀家の墓域には当主家と近しい一族と関係者、有力家臣のみの墓碑で構成されている事から態々謀反を起こした罪人の墓がある可能性は極めて低いと思われます。又、勘解由は京都で死去している事から流罪先としてはかなり不適当と思われます。そもそも、「堀尾古記」によると元和5年(1619)に堀尾河内守を隠岐に被遣した旨が記されている事から、「堀尾騒動」は元和4年(1618)前後に発生し、元和5年(1619)に処分が下されたと考えるのが妥当で、河内守父子が死去したのはこれ以降という事になります(河内守は寛永5年:1628年に隠岐で死去)。

堀尾掃部氏光(宗光)は吉晴の片腕として松江城の築城にも大きく貢献し、発給文書が多く松江藩初期の事実上ナンバー2だったと思われますが、明確な墓碑が無く、没年が慶長13年(1608)説があり、しかも「掃部」と呼ばれている事から「堀尾勘解由」その人だったと個人的には推察します。氏光(宗光)の墓であれば、高野山や月山富田城にあるのは自然な事で矛盾が少ないと思われます(兄である吉晴の墓も月山富田城にある巌倉寺の境内に建立されています)。

堀尾勘解由の墓:写真

親子観音(堀尾勘解由の墓)
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