安来市: 尼子清定・経久墓所

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概要・歴史・観光・見所
尼子清定・経久墓所(安来市)概要: 伝承によると、この宝篋印塔は尼子清定・経久両氏の墓標で、菩提寺である洞光寺が洪水により大破し寛永12年(1635)に現在地に境内を移した際、住職の墓標と共に現在地に移されたと伝えられています。昭和33年(1958)、洞光寺の元の境内(金尾)から経久の墓と思われる相輪部を発見し現在地に持ち帰っています。右:洞光寺殿華山常金大居士(尼子清定)。左:興国院殿月叟省心大居士(尼子経久)。

尼子清定は応永17年(1410)に出雲守護代で月山富田城の城主でもある尼子持久の子供として生まれました。持久の没年が永享9年(1437)の為、その直後に尼子家の惣領を引き継いだと思われますが、出雲守護代としては応仁元年(1467)頃に就任したと思われます。応仁の乱が発生すると出雲国守護の京極持清と対立関係にあった山名宗全の後ろ盾を得た松田備前守が応仁2年(1468)に月山富田城を急襲、清定は何とか撃退するものの、京極家や尼子家に異を唱える国人領主達が次々と反旗を翻した為、持清はその都度粛清の為の遠征をおこなっています。

文明5年(1473)頃にようやく反対勢力を鎮圧し、その功により能義郡奉行職と美保関代官職に就任、特に美保関は貿易湊として大きな富を齎し尼子氏の台頭の大きな原動力となっています。文明6年(1474)に嫡男である又四郎(経久)を上洛させ、文明11年(1479)には京極家から経久に対して所領の安堵が行われています。この頃に清定は隠居したと考えられ、文明8年(1476)に出雲能義郡土一揆を鎮圧した以降は現在発見されている記録の上でその名が見られる事はありません。長享元年(1488)死去、享年78歳。

清定の跡を継いだ尼子経久は清定が築いた基盤の拡大と京極家からの独立を図り、戦国大名として確立しています。内乱である尼子興久(尼子経久の3男)の反乱により出雲大社鰐淵寺などとも敵対したものの天文3年(1534)には鎮圧し、その後も周辺諸国に侵攻を繰り返しています。結果的に尼子氏の直接支配は出雲国・石見国・隠岐国・伯耆国・備後国に及び、さらに従属した国人領主が周辺諸国に分布していた事から「十一ヶ国太守」の異名がありました。天文10年(1541)死去、享年84歳。

尼子清定・経久墓所:写真

尼子清定・経久墓所
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