津和野町(歴史)概要: 津和野町の歴史は古く、早期縄文時代の遺跡が点在し、九州地方の影響力が強かったと思われます。古墳時代に入ると交流が盛んになり山口地方と山陰地方を結ぶ交通の要衝として重要視されるようになります。弘安5年(1282)、元寇警備の為この地に配された吉見頼行はその後も当地を支配し石見の有力国人領主として地位を確立し14代にわたり津和野を支配します。吉見氏は足利義稙と義澄による家督争い以降、大内氏に従い戦国時代には吉見正頼が大内義興の娘婿になるど有力家臣となり、陶隆房の謀叛によって大内氏が滅ぶと陶氏と敵対し、同じく陶氏と敵対した毛利氏に組みするようになります。
慶長5年(1600)、関が原の戦いの際、吉見氏は主家である毛利輝元に従い西軍に付いた為、領地を失い萩に移っています。代わって坂崎直盛が3万石で入封し津和野藩を立藩、直盛は津和野城の改修や城下町の整備、殖産興業の振興、新田開発、灌漑用水路の開削などを行い、さらに大坂の陣で功をあげ4万3千石に加増されましたが元和2年(1616)、千姫の婚儀に対し意義を唱え奪取計画を画策したとの嫌疑をかけられ自害、坂崎家は断絶となります。
元和3年(1617)亀井政矩が鹿野藩から4万3千石で入封すると以後、亀井家が津和野藩主を歴任に明治維新を迎えています。藩主亀井家は筆頭家老である多胡家と図り領内の発展に尽力し実石15万石とも云われ程に財政を確立、人材育成にも力を入れ天明6年(1786)に藩校養老舘を開設すると幕末から明治維新にかけて数多くの偉人を輩出する土壌を作り上げました。現在でも当時の町並みや史跡が点在し「山陰の小京都」と呼ばれています。
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